【旧作書評】『映画というテクノロジー経験』

映画というテクノロジー経験(長谷正人 , 2010)

 

 

『映画というテクノロジー経験』を読んだ。長谷先生と言えば、初期映画研究の大家・トムガニングやダイヴォーンらの論考の集成『アンチスペクタクル』を邦訳された先生で、特にこの書の「光あれ!」には大変価値観を転倒させられた私。そこで紹介される挿話のあまりの衝撃に(そこまで稀な挿話でもなく有名なものなのですが)バイトをドタサボリしてしまったほどです。

 

長谷正人著『映画というテクノロジー経験』

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出版社の視覚文化叢書は、昨年末に『X線と映画ー医療映画の視覚文化史』(リサカートライト著 , 長谷正人訳)というこれまた非常に興味深そうな本を出版しており早く読みたいのだが、蔵書が一向に返却される気配は無い。今見てみると4/22までだった貸出期間が5月まで延長されている。読むのが遅い。しかも研究室貸し出しだ。許せん。早く読み終わってください。もしくは経費で購入して下さい。

 

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『映画というテクノロジー経験』は、映画が我々観客の「経験」であることが前提として置かれている。「経験」つまりまだしたことがなかった状態からしたことがある状態への移行ということだが、それは映画における「時間」の問題とリンクするだろう。我々は上映時間二時間ほどを経て、映画を経験する。映画批評・研究は時としてこの大前提を見過ごしがちである。本著は、これまでの映画批評・研究が見過ごしてきたものを掬い上げるようとする、すなわち映画を我々観客の下へ改めてたぐり寄せてみようと試みるのだ。

 

映画における「観客」が誕生したのはいつだろう。それは間違いなくパリ・グランカフェにて行われたリュミエール兄弟による上映会であろう。その上映会での観客の反応は今では神話化されているが、氏は、そのような神話からはこぼれ落ちてしまっている興味深い観客の反応を掬い上げる。O・ウィンターという記者は『列車の到着』を評する際、守衛やポーターが労働に励む姿やドアを開けようとする乗客の姿を執拗に描写しているというのだ。このとき観客の視線は、タイトルに「列車の到着」とあるにも関わらず、あたかも列車とそれ以外の事物との間に質的な差異がないかのように、それらに対して同等に注がれている。また『港を出る小舟』を見た当時の観客は、専ら「水」に反応していたり、『壁の取り壊し』を見た者は、煉瓦の壁が崩れ落ちる際に地面から巻き上がる「煙」に反応した事実を、氏は丁寧に掬い上げる。このような挿話から、当時の観客は、製作者の意図や映像の意味から自由な視線を持ち得ていたといえる。当時の観客は、決して、スクリーンから列車が飛び出してくるかと勘違いしたという神話に表れているようなアトラクション的な面白さのみを経験していたわけではなく、ジョナサン・クレーリー言うところの「失認症的な視線」で映画を経験していたのである。

 

ここで話が飛ぶが、名著『映画の生体解剖』中で「映画の中に時間は流れているか」という問題提起がなされる。古典的ハリウッド映画やサイレント映画には時間が流れていない、と主張する高橋洋氏は、近年の映画は音の比重を増すことによって「時間らしきもの」を表現した気になっているにすぎないと述べる。そしてそのような氏の感覚を理論的に支える方法論として「アクションの操作」という概念が導入され、かつては役者のアクション=動きの間を詰め、緻密な演出が施されることで、カットに時間を介在させなかったのだと言う。ここでの「時間」とは、我々が日常を生きる上で感覚的に知っている時間ということだが、ここで初期映画を見た観客の反応について話を戻すと、彼らも、直線的な時間の流れが映画によって断ち切られるように感じたに違いないと私は考える。初期映画に果たしてどれほどの「アクションの操作」がなされていたかは分かりかねるが、「失認症的な視線」は「無時間な視線」とも言い換えることができるだろう。経験が認識につながらないために、主観的には無時間なのである。そのような時間に晒された観客は、きっと恐怖したに違いない。そんな映像に意味を与えることで=物語を与えることで映画は存続してきたのだとすれば、映画は何を隠蔽しようとしているのだろう。ブレヒトによる叙事演劇理論も、このような文脈で考えることが出来そうだ。その覆いが剥がされ解放されてしまったとき、人々の気は狂うに違いない…背筋がゾッとするような挿話であった。

 

話が大分横道に逸れてしまったが、著者は初期映画の観客の映画経験を以上のようなものと結論づけるのだ。そしてそのような経験のあり方は、現代の我々にも通ずる所があると言う。「実際私たちは、ちょっとした不注意ですぐにシーンの「意味」が分からなくなってしまう」と、著者は正直に自身の映画体験を告白する。ここからは「映画と記憶」もしくは(同義だが)「映画と忘却」という問題が触れられていく。第11章『記憶と忘却の経験としての映画』という部分なのだが、これほど身の丈に合った鑑賞態度を詳らかにする評が他にあるだろうか。

 

著者が引き合いに出すのは、評論家・上野昂志である。上野は「映画についての記憶が、場面の記憶としてまずあるということ」にこだわって議論を進める。場面の記憶とは物語の記憶とは異なるもので、上野にとって重要であるのは「なぜか面白いと感じた場面」であり、そのような場面は物語上さして重要でないにも関わらず、上野の頭にこべりついて離れない特権的な何かを持っているのである。そのような自身の経験として映画を語るのだ。「映画を見るという直接的な経験と、あとでそれを思い起こすときの記憶との間には必ずズレが」あり、上野は「映画について書こうとする瞬間に必ず生じてくる、このズレの問題に立ち止って思考し続けた」と著者は述べる。このような思考方法は、例えば蓮實重彦による主題論的/説話論的という二項対立的な思考からは生じ得ないものである。これには撃たれた。蓮實重彦によるデータベース的な映画の見方ではなく、はたまた作家の意図や場面の意味を重要視する旧時代的な見方でもなく、あくまでも「自身の経験としての映画」を述べ、何故か共鳴してしまう場面を語り尽くす。果たしてこれを知的な映画評として、体裁を整えるレベルにまで如何にして持っていくかが気になるところであるが、先に挙げた『映画の生体解剖』のように、映画を語る上では、対談形式だって一つの立派な形式であり卑下されるべきではないのである。

 

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元来、人は映画に接する際、認識能力を失いバカになるのが正直な所なのだ。そこから論を始めようではないか。今自分はそういうものを漁りたい、と常日頃感じていたので、この書は私にある種の癒やしを与えてくれた。

上で挙げた以外にも、例えば主にマキノや山中貞雄を参照しながら「映画のリズム感」を論じた第6章や「フィクションが如何にして社会性を勝ち得るか」を論じた第9章など、読み応えありありである。