放電1

a1. 『MAD GOD』(フィル・ティペット

a2. 『成吉思汗の仮面』(チャールズ・ブレイビン)

a3. 『プレステージ』(クリストファー・ノーラン

 

 

ひたすら未見の放電映画ばかりを追った一日。明日もその予定ですけどネ。

友人から婚約の報告を受けて驚く。もうそういう年頃よね~。

 

 

a1.

素晴らしい!レビ記から映画が始まるように旧約聖書のグロテスクな表現をさらに拡大解釈して提示してみせる作品なのだが、とてもじゃないが目で追いきれる情報量ではない。ゆえに台詞は最小限、というかほぼ皆無。ティペット曰くこの過剰な情報量を「われわれは既に見ているのだ」とのことで、これには唸る。そう、確かに見ているのだ。The Assasinと呼ばれるガスマスクの男が松明を手に階段をただただ降りるだけのフッテージを見たティペットがそのイメージに突き動かされて、いにしえの企画を再始動させたそうで、冒頭ひたすら垂直に下降し続けるシークエンスが非常に美しい。特にアメリカ映画においては横方向に世界がぐんぐん拡張されていくのが一般的なのに対し、今作は縦移動。移動の過程で糞尿を元に産み出されたブードゥーゾンビみたいな奴らを目撃するガスマスク男は、監視員にぐちゃぐちゃに踏みつけられるゾンビ達に、その命の軽さを憂いて思わず感傷的になるのだが、彼もまた到着してすぐ小人たちを知らず知らず踏んづけていたのであった。ただガスマスク男とゾンビとの間に生まれる一瞬のつながりには心掴まれティペットの技が光る。さて、問題の放電場面は二度あり、一度目はゾンビの元の糞尿をひたすら生成するクリーチャー達の脳を直接刺激する放電。二度目は糞尿処理を任されているクリーチャー達はゾンビたちよりもハッキリとした自我が芽生えており喧嘩を始めるのだが、それを監視員によって咎められる場面で、またしても彼らの脳にビビビとやられる。どちらの放電場面も「脳」がキーワードでいわゆるDeath Rayとは異なるよう。ティペットにとって電気は生命に関わるものではなく(例えば『フランケンシュタイン』のように)、マインドをファックするものであり、あまり神秘的な電気ではない。「脳」関連で言うと、捉えられた主人公は手術台に固定され、内臓から何から抉られていく。その過程で金貨や財宝がはらわたの中からわんさか出てくるも、執刀医たちはそれには関心を払わない。彼らはついに腹の中から芋虫を手にする。どうやら欲しがっていたのはそれのようで、女はそれをどこかへ運んでいく。一人残された男は興味本位で主人公の脳味噌に「脳内視鏡カメラ」を手荒く突っ込む。するとどうでしょう、主人公が下降してくる中で見た光景が手前のモニターに投影されるのだ。なんてすばらしいシークエンス!こんなに良い場面は中々見れるものではないよなあ。同様のシークエンスは繰り返され、ドワーフみたいな見た目をしたおじさんが望遠鏡を覗くとそこにはメリエスの映画が投影される、というこちらも大変魅惑的な場面がある。「見る」からつなげると、「目玉」の印象が非常に強い映画。ファーストショットも目玉で、クレジット後のラストショットも目玉。ここまで繰り返し目玉を出されると色々と勘ぐってしまうのだけど。ただストップモーションで見る目玉の動きはとても面白い。血走った目玉がこぼれ落ちそうになっているのもキュート。音楽も良かったな、Dan Woolさんはアレックス・コックス映画の音楽で有名。傑作です。

 

a2.

さいこう~。放電映画の名に恥じない素晴らしいビリビリ。しかもフー・マンチューボリス・カーロフの名演!)の演説の迫力もすごく「演説映画」として売り出しても十分に客入りは見込める。

 

a3.

「タネをばらしてしまったら観客は離れていく」を映画の中で言わせるという、たいへんトッド・ブラウニング的な映画のはずなのだが。タネを最後の最後まで引っ張ることは映画ではすべきではなく、明かしてしまう方が得策。舞台なら離れるが映画なら離れない。せっかく分身テーマを扱えるチャンスだったのに、たいへんもったいない。テスラとの関わりという偽史要素は原作(プリースト『奇術師』)由来だそうで、こちらは面白い。