a1. 『炎628』(エレム・クリモフ)

a2. 『クローンウォーズ/S3』#8-10

 

 

『炎628』はフェイバリットであり、家の裏に大量に積まれた死体が画面の端にチラッと映ってしまう場面がやはり飛び抜けて優れていると思うが、「映画の生体解剖」では本作は「沼・子ども・極悪人」という括りで扱われている。高橋・稲生両氏が「沼映画」を挙げているので、今後の鑑賞の指針のためにメモを残す。

『雀』(26)★、『夜の悪魔』(43)、『赤い家』(46)★、『Strangler of the Swamp』(46)★、『拳銃魔』(50)、『狩人の夜』(55)、『悪い種子』(56)、『吸血怪獣ヒルゴンの猛襲』(59)、『サイコ』(60)、『恐怖の岬』(62)、『血まみれギャングママ』(70)、『悪魔の沼』(76)、『SF/ボディスナッチャー』(78)、『ワイルドシングス』(98)、『ギフト』(00)、『ペーパーボーイ』(12)

(※製作年順)

こう並べて見ると、両氏が挙げてリストには80年代の作品ががっぽりと空いている。まあ、泥レスものなど、大量に粗製濫造されていたとは思いますが。私にとって決定的な沼は、単に沼への執着が凄まじいという点で、ノーマン・J・ウォーレン『人喰いエイリアン』(84)。エイリアンも、沼には及ばない。これ以外にも、ウェス・クレイヴンが撮った『Swamp thing』も当然、沼。『炎628』と「沼」でいうと、やはり、顔が汚れるという点にクリモフは執着しているように思われる。

 

 

 

a1.

徹頭徹尾、「顔」の映画なのである。戦争によって変容した「顔」によって、戦争を切り取る、という発想はやはり妻であるシェピチコの『処刑の丘』の影響であろう。ただ、映画が暴れ出す瞬間は、ナチスの移動虐殺部隊ベラルーシの村を丸ごと焼き尽くす場面で、これは「戦争映画」ではなく「芸術的記録映画」として撮られる。当時の場をまるごと再現してしまい、ただそこで行われる所業にカメラを向ける。カメラの向こうから、現場の混沌ぶりが伝わってくるようで、時折、明らかに映り込んでしまったナチス兵がカメラに向かって主張してくる。女将校は、カメラ目線で、焼け死んでいく住民の姿を横目で見ながらロブスターをしゃぶる(後に乳を出しながら死ぬ)。ここでも、場を丸ごと作りあげ、そこにカメラを置く、という手法で撮られたからこそ不意のカメラ目線は生まれており、おそらく脚本で考えられていたわけではないのでしょう。また、アメリカ製の戦争映画では切ってしまいそうな、逃げたパルチザンの元へ少年が還る場面での長い主観ショットには、本作特有の、場そのものへゆっくりとカメラが分け入ってゆくような感覚が存分に感じられ、素晴らしい。また、本作でも飛び抜けて優れていると思われる、家の裏に大量に積まれた死体が画面の端にチラッと映ってしまう場面も、まさに場の「舞台裏」がチラリと映ってしまったときのような緊張感が画面に走る。ベラルーシと言えば沼沢地と森林であり、その地理的特性を活かした画作りも見事。そして、これまでの「芸術的記録映画」としての在り方から、もう一段階の脱皮を試み、「記録映像」そのものと衝突させてしまう、その心意気には撃たれる。戦場のただ中に投げ込まれ、顔が変容、おじいちゃんのようにしわくちゃの顔になってしまった少年と、反対に時代を逆行してゆくヒトラーの記録映像とが衝突するとは、最後の真っ当な主張は置いておいても、あまりにも魅力的な実践である。

a2.

#8. コルサント闇市で買い物をするR2D2C-3POがキャドベインに拉致される。設定が完璧で、ベインと一緒にヘリオス3E(IG-86型)とトド360の出演も超嬉しい。ベイン一派最高よな~。薄汚い闇市の一画にお風呂屋さん、ドロイド専用の風俗があるのも、歌舞伎町みたいでリアリティがある。

#9. エピソード6でジャバの宮殿でエッチな踊りを披露していたサイ・スヌートルズ再登場で、ズィロを術中に嵌める。彼女も賞金稼ぎになるそう。ハット族にもちゃんと評議会がある、それがスターウォーズだよな。ジェダイの風来坊、クインラン・ボスが登場。彼もまた幻視能力を持つ。とくに鼻が利くジェダイだ。で、なんとこの人、アイラ・セキュラのマスターだったそうで、彼女もフォース感能力を持っている。

#10. 次は、おそらくはじめて?分離主義派の議会の様子。ドゥークーは、共和国の軍備を増強させるため、これもおそらくはじめて?コルサントに襲撃を仕掛ける。

 

 

 

 

 

合言葉は「レンフィルム」

a1. 『トルペド航空隊』(セミョーン・アラノヴィッチ)

a2. 『囚われの女』(シャンタル・アケルマン

a3. 『クローンウォーズ/S3』#5-7

 

 

a1.

1992年、レンフィルム映画祭にて公開され、場内が騒然となった一作。蓮實重彦により「ロシアのサミュエルフラーとも言うべき孤高の活劇派」と紹介されているアラノヴィッチは、元々航空隊の一員であり、その後映画監督に転身した。平然とモノクロとカラーが混在する、そこに何ら意味は介在せず、あるのは編集の的確さでしょう。機体の内側と外側、撮影パートと記録映像パートとがつながれ、あくまでも金銭的な制約を受けての選択なのかと思いきや、突如頭上をメッサーシュミット?が襲う場面では明らかに、実際に戦闘機を飛ばしている(ぐるんと一回転するカメラワークが印象的)。かと思えば、最後にイリューシンが燃えて墜落する場面ではミニチュア撮影を試みているし、エンジンから発火したイリューシンがドイツ軍艦隊に突っ込む素材は、モノクロではなくカラーなのだが、これがどうも素材には見えないし、ミニチュアにも見えない。「戦争映画」とは一体何なのだ。今後も考え続けたい。一点、本作がまるで戦意高揚映画、のように捉えられている節があるが、そのような見方には真っ向からノーを突きつけたい。イリューシンが離陸する場面での、まさにその飛び立つ瞬間をそぎ落とした編集。気付けば大地を見下ろしており、まるで魂だけが遊離してしまったかのような感覚は、並の戦争映画ではない。

 

参考までに。『トルペド航空隊』での劇映画のパートでは、たしかにここで言われているような伝統的なソビエト映画の作り方によって切り取られた感覚がある。ただ、いざイリューシンが飛び立ち、ほんものの記録映像とミニチュア撮影とが、カラーとモノクロとが入り乱れるとき、果たしてそれは「芸術的記録映画」なのだろうか。そこでは、「芸術的記録映画」と「記録映像」とが衝突している。

 

a2.

ラフマニノフ「死の島」が繰り返し、何度も流される(このようなクラシック音楽の用い方で好みな作品は『日本の夜と霧』での「革命 第一楽章」)。絵画に描かれる小舟のイメージがラストカットに影響を与えたのか。最後に溺れた女を泳いで助けに行く場面も相当暗いのだが、同じように森の中もまた暗い。車窓から見える森が流れていくカットなど、何が映っているのやら全く分からない。部屋の中もまた暗く、家政婦に「ブラインドは上げないでくれ」と頼む場面もある。この、全編に亘る、暗さへのこだわりは何なのか。そんな中、浮き立って見える場面が二つあり、一つは森の中で商売をする娼婦たちが車のライトで一人一人照らし出される場面。もう一つは彼女とアパートの向かいに住む住人とが二重唱を奏でる場面。どちらも女にスポットライトが当てられ、女だけの世界に迷い込んでしまった、それを見る男は暗闇に潜む、という構図が見られる。そのような構図には、たしかに「囚われた女」というタイトルが示すように、男からのまなざしに幽閉される女、といった意味合いを感じ取れそうなものだが、実際に映画を見ると、反対に彼女たちはまなざしを気にせずに自由に振る舞っているように見える。そして、男の方が囚われているのではないか?と疑問を抱かざるを得ない。そのような疑問を投げかけるためには、『囚われた女』は映画でなければいけなかった。一点、最後小舟に女の死体は確認できなかった。

a3.

#5. マンダロア回。食中毒を起こす。

#6. マンダロア回。闇取引に首相自らが参戦。

#7. ズィロに雇われたオーラ・シングがパドメの命を狙う。中々に面白い回でした。アナキンも悩まされた「幻視」という機能がフォースに追加され、師匠とは違い、アソーカは上手く使いこなす。

 

回顧的アイロニー

a1. 『がんばれかめさん』(ロラン・ブイコフ)

a2. 『処刑の丘』(ラリーサ・シェピチコ)

 

 

登場人物による、意図せぬ台詞の反復がもたらす効果について、頭を悩ます作品に出会う。その反復がもつある種のアイロニーは、悲劇的な(伝統的な)アイロニーではなく、幾分回顧的な性質を持つアイロニーなのだ。つまり、観客に求めるべきものを想像させるのではなく、その来たるべきものが来たときに、ちょうど木霊のもつ効果のように、それ以前に述べられたある台詞を思い出させる。だからこそ、「未来から見つめているような」、などという表現が出てくるのではないか。映画では、得てして、俳優の「たった一言」によって作品世界の磁場が一変し、依って立っていたはずの地盤が揺らいでしまう瞬間が起こってしまうことがある。陳腐な言い方をすれば、芝居なのか、本当なのか。または、木霊なのか、肉声なのか。このように観客の瞳を二重化させることさえ出来れば、映画の勝利は近い。「さえ出来れば」と言うのは、実際どっちかなんてどうでもいいことだから。

 

 

a1.

戦車に轢かれそうになる亀を巡って、子供が全力疾走でそれを食い止め何とかレスキュー。走る走る走る子供を追うカメラワークも凄ければ、行く手を阻む向かい風も豪快に吹き荒ぶ。あまりに自由すぎる、授業中とは思えない光景も魅力的に見える。それはひとえに子供たちの顔でしょう。亀=戦車や、男性器、といった安易なメタファーに思われたが、そんなものは後半になると取っ払われ、ひとつの小さな命である、と主張してしまうところに本作最大の美点があり、そんな亀を踏みつけないように戦車は躱すし、誤って古紙と一緒に燃やされそうになる亀をがんばって、皆で協力して消火する。その場面のスラップスティックな面白さもさることながら、女の子たちが終始パンツもろ出しで駆け回る姿には元気が出た。鋭い観察眼によって撮られた、紛う事なき傑作。

a2.

エレム・クリモフの奥様らしい、というか、しっかりクリモフはシェピチコの作風を受け継いでいたのだな、と納得させられる素晴らしい出来。戦争映画、とは戦争を描いた映画、と定義できそうなものであるが、実際の所どうなのだろうか。何を媒介として戦争を語るか、という点で戦争映画は分類される。本作は、やつれた顔を通して戦争を語る。その点こそ、クリモフが『炎628』で継承しているのだ。顔の映画だからこそ、顔の寄り→目線カット→再び寄り、というカット割りによりシークエンスが構成される。橇に乗せられ、収容所へと運ばれていく際に見られる一連の、顔と、風景の移り変わりを示す目線カットとを交互につないだシークエンスは白眉だ。また『炎628』との共通点として、時間の逆行が見られる。冒頭の、風景を写したカットをつないだものを、最後には全く逆の順序で再配列し直す。これにより、収容所というものが時空を超えた存在であることが示唆される。脱走したからといって、解放されたからといって、決して収容所の記憶は消えることはないのだ。彼は収容所内の記憶に幽閉されている。そしてその刻印が、しっかりと顔に現われてしまうのだ。

映画のディスコミュニケーション

a1. 『死者からの手紙』(コンスタンティン・ロプシャンスキー)

a2. 『長い見送り』(キラ・ムラトヴァ)

b1. 『マクベス』(ウィリアム・シェイクスピア

 

 

a1.

ミニチュアで描かれる大カタストロフに、核爆撃によるショックで一言も言葉を発さない子供たちの声が独白として重なる場面が白眉で、これには異化効果がある。博物館からシェルターの外までの、瓦礫の山の狭い間を通り抜けるいつものルートや死体搬送用のトロッコ列車など、およそ少ないバジェットでディストピアを作りあげてしまう手腕に長けた映画。博物館には、とある芸術家、の息子がいるのだが、彼はしきりにカメラの方向を見る。ゲルマン作品との類似項を発見。しかし、カメラを見る、とは何と罪深い行いか。たったそれだけの行動で、フィクション世界の牙城が崩れ去ってしまうのだから。ただ本作では冒頭から主人公の教授による、死んだ息子に宛てた手紙が独白として画面に重なっており、また直接的に今映画を見ている観客を名指す文句もあり、必然性はあると言えるが。そんな息子は、父親が自殺してしまった際、とんでもない表情を浮かべながら再びカメラを見つめ、「見るな」と言わんばかりに銀シートで間を仕切ってしまう時に特異なつなぎが見られた。他にも、カタストロフに至る前、白い光線がビカッと発散する前に悶える女性の顔のアップが唐突にインサートされるのには驚いた。ここでも再び「顔」、そして「大事件」がつながれている。また、裸電球の明かりに乱れが生じる演出も記憶に残る。

a2.

このしつこさは何だ。ギャグになっている、傾斜のある机に置いた万年筆が何度も転がり落ちてしまう場面や、火消ししたはずのマッチの火が消えておらず、引き出しが火を噴く場面などや、女の髪の毛がファサッとほぐれるさまを敢えてつなぎ間違えているのは『カラビニエ』、などは分かりやすい例で。ここまで「編集」というものが前景化してくるのはソヴィエトだなあと感心する。最後、「どこにも行かないよ」とサーシャが言う場面では不覚にも涙。素晴らしかった。あの演歌みたいな場面には、まるで『ブレードランナー』のような、同様のマジックが働いているのだ。まさに「映画のディスコミュニケーション」と評したくなるような演出は、見ていると胸が詰まり、ヴェルナー・シュレーターの映画(『マリーナ』・『愚か者の日』)を見ている時の感覚に非常に近い。

b1.

トマス・ド・クィンシーによる批評文が大変素晴らしかったので、該当箇所及び抜粋を引用。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

夫人:私の手も、おなじ色に、でも、心臓の色は青ざめてはいない、あなたのように(戸を叩く音)南の戸を叩いている。戻りましょう、部屋へ。ちょっと水をかければ、きれいに消えてしまう、何もかも。訳もないこと!勇気をどこかへ置き忘れておいでらしい。(戸を叩く音)そら!また、叩いている。さ、ナイトガウンをお召になって、誰かに起こされても、ずっと驚かずにいたと感づかれないように。そんな、何かに心を奪われているような様子は禁物、元気をお出しになって。

マクベス:自分のやったことを思い出すくらいなら、何も知らずに心を奪われていたほうがましだ。(戸を叩く音)ああ、その音でダンカンを起こしてくれ!頼む、そうしてくれ、出来るものなら!

 

私の読みは非常に浅いため、ここの(戸を叩く音)には全く反応できずスルー。

 

少年時代以来、私には、「マクベス」の中にどうしても理解できぬくだりが一箇所あったのである。それはダンカン王殺害の直後の扉を叩く音なのだが、この音がどうにも説明できない不思議な効果を与える、ということなのであった。つまり、あの扉を叩く音は殺人犯マクベスに対し、特異な恐怖と深い厳粛感とを与えるのだが、長年の間考え抜いたにもかかわらず、なぜそういう効果を生じるかを、私は理解できなかったのである。(中略)加害者の心中には、嫉妬、野望、復讐、憎悪などの激情野荒らしが吹きすさび、地獄の様相を呈しているにそういない。その地獄を観客に覗かせねばならないわけである。「マクベス」の場合もそうである。人間的な感情を消え、悪魔的な心が忍び込んできたことを表現し、観客にそれを感じ取らせねばならないのだ。舞台の上には別の世界が忍び込んできた。二人の殺人者は、人間の世界から離脱してしまっている。(中略)二人とも悪魔のように見えてくる。悪魔の世界が突如として現出したのだ。(中略)ダンカン殺害が終わったとき、暗黒の作業が完了したとき、暗黒の世界は一時消え失せねばならない。扉を叩く音がきこえてくる。そしてこの音はこそは、反作用が始まったことを観客の耳に知らせるのである。人間の世界が悪魔の世界に逆流してきたのであり、生命の脈拍が再び鼓動を始めたのである。そして、人間の世界が蘇生したということこそ、それまでの中絶期間を、恐るべき暗黒の世界を、痛切に感じさせるわけである。

 

たった一つの音によって、世界に裂け目が生じる。フィクションがフィクションではない何か奇妙なフォルムを持ち出すのはまさにこういう瞬間なのだ。素晴らしい論考。

 

クローンウォーズがおもろすぎる。

a1. 『緋色の街』(フリッツ・ラング

a2. 『暗黒街の顔役』(ハワード・ホークス

a3. 『クローンウォーズ/S3』#1-2

b1. 『ウィリアム・ウォーカー・アトキンソン』(フィリップ・デスリプ)

 

 

ドラマ、クローンウォーズ・バッドバッチ・反乱者たちを見終わったら、MCU見て、そしたら『刑事コロンボ』一気見しましょ。

それと16・17日に東京に行けることになったため、『処刑の丘』を見れることに!歓喜!!歓喜!!もうほんまに嬉しい。嬉しいーーー!!『がんばれかめさん』と『灰色の石の中でも』と『長い見送り』も見るぞ~。あと23日も東京行けるので、マルセル・アヌーン見るで~。ただ残念ながら『春』は見れないけどね。

 

 

a1.

エドワードGロビンソンは、人の良さげな勤め人的な笑顔と、怒りを内に込めて何かを思い詰める恐い表情を共に出来てしまうのだからすごい。冒頭の職場の祝いの場でのささいなやりとりを見ただけで、この人の人生すべてを見通せたかのように思えてしまう。終盤にジョニーが逮捕、裁判になってようやくラングらしい画面の連鎖が見られるようになってからは、映画の側がロビンソンの内面を追い詰めてゆき、それにロビンソンも応え、といった相乗効果が。ダン・デュリエは『飛べ!フェニックス』ではじめて認知し、人柄の良い役者やなあ、などと思っていたら、『ウィンチェスター銃'73』では真逆のクソ人間で、どうやらこちらが本職らしい。ロビンソンのアトリエにはじめてお邪魔した際、早速下の階の氷屋と仲良くなっている辺りは、非常に演出が細かい。ジョーン・ベネットはひたすら、モノを画面外へ向けて投げまくる(ロビンソンが描いた画では、ベネットが投げた煙草の吸い殻に羽根が生えていた)。彼女がもつ唯一の所持品であるレコードプレイヤーからは劇中二度「Melancholy Baby」が流れ、どちらも途中で機材不調を起こす。『13回の新月のある年に』でも同じような不調を起こして同じフレーズが繰り返される、あのエンディングを思い起こした。『13回』では、死の瞬間が無限に引き伸ばされてしまったかのような感覚を与えていたように、本作でも、特に二度目に流れる場面では、一瞬の出来事のはずが非常に長く感じる、という特異な時間が生まれていた。

a2.

犯罪が起こる予兆として幾度も画面に登場するXという文字。Xが横一列に並ぶ梁の装飾を映し、そこからカメラを下に向けると壁に向かって立たされる男たちの影が、またもや横にずらっと並び、背後から射殺されたあと、再びカメラは上を向いてXに戻る一連の長いカットからもXが重要なモチーフになっていることはうかがい知れる。「X」が「死」を連想させるのならば、ポール・ムニの左頬に刻まれたX字の「傷跡」は、他の何にも増して彼の死を物語っている。どうやらその傷は従軍の際に刻まれたらしいのだが、たった傷跡一つがなんと雄弁か。映画では傷跡、痕跡を示すことでしか語り得ないものが存在し、たとえばフリッツ・ラングはその名手。こと犯罪映画に限って言えば、ほとんどの映画で拳銃が登場するも、致命的なことに弾道はカメラに映らない。ゆえに弾痕(それと銃声)を映すしかないのである。ロボに裏切られ、深い傷を負ったポール・ムニの姿を見たカレン・モーリーは「何があったの」と問うが、ムニは「こういうことさ」と明言することは避け、代わりに傷跡を見せる。また、ギャング世界の抗争の部外者である大衆にとっても、彼らの世界の断片をうかがい知るのは、襲撃されるその最中というよりもむしろ、襲撃後の蜂の巣状態、そこに残された無数の弾痕、そして死体の方であろう。ここまで弾痕を際立たせている映画も珍しいのではないか。割れる窓ガラス、壁に空いた穴。ギャングの激しい追跡に遭い、終いには互いの車がぶつかり合うカーチェイスに発展する場面で、スクリーンプロセスによって投影された、割れる車窓ガラスの弾痕がやたらとデカいのが特に印象的。またすごく素朴な感想として、たったの93分でここまで濃密に物語れることに驚いた。死をとってみても、同じ動作を繰り返し続けるキャラクターたちが、死ぬともう「繰り返さなくなる」。たったこれだけの、単純なことなのだが、いやすごい映画。

a3.

#1.、#2.  予期せぬクローントルーパー推しがシリーズ最大の魅力、と言っても過言ではなく、シーズン3のオープニングがトルーパー訓練モノ。#1.でめちゃくちゃ感情を持って行ったヘヴィが前線で死んでしまった、との報、そしてならず者・ドミノ部隊を影で支えた99号も死す。正史を見ているとどうしたって戦争の重みは排除されがちで、多くを想像に依っていたが、この二作ではいよいよリアリティを持って迫ってきている。分離主義派からすれば、クローン製造工場であるカミーノを叩く、というのは領地拡大以上に理に適っている。

b1.

b2.

b3.

 

一休憩

a1. 『デュエル』(ジャック・リヴェット

a2. 『クローンウォーズ/S2』#20-22

b1. 『物理療法の誕生』(中尾麻伊香)

b2. 『松本道別の人体放射能論』(奥村大介) 

 

 

 

今後の指針メモ。

・直接的な戦闘描写なしで戦争を描いてしまおう、という大胆な試みを実践、みごと成し遂げてしまっている映画をもっと掘っていきたい、と考えていた一日。時折そんな映画に出くわし、忘れないうちに慌ててメモをとろうとメモ帳を探す間には、もう別のことを考え始めているのだから始末が悪い。今の段階で思いつく限りに作品を挙げると『ベルイマン監督の 恥』・『戦争のない20日間』・『スパイの妻』・『国境なき町』・『パリの灯りは遠く』・『チェチェンへ アレクサンドラの旅』・『ちいさな独裁者』などか。分からないけど、『兵隊やくざ』とかもそうなんか?いや、他にももっとあるはずなんだよなあ。戦争映画は、機を見はからって大量に見ようと思っているので、その時のためのメモ。

・今はそれより1920年代の犯罪活劇、それのフォロワー作品を見まくりたいのだ。フォロワーとしては、当然ハラルト・ラインルは見直す、『蛇の卵』もどうやらそうらしい、アサイヤス『イルマ・ヴェップ』も見なければいけない、バーヴァ『黄金の眼』もみたい、忘れずに『ピンクパンサー』・『ルパン三世』もな。

・本は、現在読んでいるオカルト本を中心に読み進め、そこからの連想でユイスマンスや、ユゴー、クィンシーなども読みたいところ。小説ではシェイクスピアは読むとして、やはりドイツ文学を読むこと。

・「迷宮」についても進めたい所でもあるのだが…

 

 

あと、今ヴェーラでやってるウクライナ特集。めっちゃ行きたかった。『処刑の丘』を劇場で見れる貴重なタイミング…ムラトヴァもぜひ字幕付で見たかった。

http://www.cinemavera.com/files/202204021612523.pdf

↑今後の鑑賞の参考までに

 

 

a1.

これまた音源を映してしまっているのが面白い。オーケストラの感覚に近い?また、バルベシュローダーが登場するとビュービュー風が吹き出す。一瞬ひやりとする風があった。

news.yahoo.co.jp

a2.ボバ回は神がかっていた。一時期コルサントに収容されていたとは驚きだ。特に22話目はデイヴフェローニ回でもあり、素晴らしい完成度でした。スターウォーズ世界のアンダーワールドはもっと描いて欲しい。プロクーンも出るよ。

#20. とにかく面白い!

#21. とにかく面白い!

#22. とにかく面白い!

教会の鐘が鳴ると血の雨が降る

a1. 『マブゼ博士の遺言』(フリッツ・ラング

a2. 『ファントマ/Ⅳ.ファントマファントマ』(ルイ・フィヤード)

a3. 『ファントマ/Ⅴ.ファントマの偽判事』(ルイ・フィヤード)

a4. 『クローンウォーズ/S2』#18-19

b1. 『ハムレット』(ウィリアム・シェイクスピア

 

 

仕事に疲れたOLのVログばかり見て、一日終了。おかずをダブルクオーテーション付きの“オカズ”と表記したり、サムネで胸を強調したり、といったテコ入れが鼻に付くが、その中にふと沁みるぼやきがあったりする。あと「お局様」とか、ビジネス用語の勉強になる。さて、明日からは研究に力入れよう。

 

 

a1.

やはり傑作。この切実さは迫ってくるものがある。マブゼは狂わないと終われないのだ。これは連続活劇そのものへの批評にもなっている。死ぬと終わるのではなく、狂わないと終われない。

a2.

まさかの「落とし穴」!一瞬、何が起こったのか理解が追いつかない点が優れている。映画ではこの、理解が追いつかない、てのは最も重要なことかもしれない。今作でははじめて(と言ってもいいでしょう)大衆の姿が大きくクローズアップされるも、『マブゼ』ほどの深刻さはまだない。しかし全員検挙されてしまうのが何とも酷。画面の奥行きを用いて、後景では忙しなく人を動かし、画面手前の人物の静を強調する演出は、画面を見つめているだけで否応なく感情が乗ってしまい、素晴らしい。壁から血が滲み出してくる場面も不気味で良い。

a3.

教会の鐘!これはシリーズベストの場面。鐘を鳴らすと血が上から降ってくる、というアイデアが何よりも素晴らしい。『ファントマ』はアイデア重視の設計であり、辻褄はさして重要ではない。ジューヴの計画など、全く以て意味不明なのだが、太ったおじさんがファントマを逃がす画が面白いので全く問題ない。その際、ジューヴは「してやったり!」顔を浮かべてチラリとカメラの方を見る。全シリーズ通してこういった、変装している人間による観客への目配せは見られる。いいなあ、こういうの。今これをメジャーでやってくれているのがMCU。顔見世だ、などと批判されがちだが、私はそういうのが好きなので、もっとやってくれ。

a4.

#18. ダグ種族(セブルバの種族で、クワイガンがマラステアでもポットレースをやっていると言っていたのはそのこと)が棲息するマラステア星では燃料が採れる。ユラーレンとトレンチ提督が戦ったマラステア・ナロウズの戦いの主戦場でもある。以前には分離主義側の兵器で、ドロイドには無傷の爆弾があったが、今回はその逆を使用。そのせいで、地底に潜むジロ・ビーストが目覚める。

#19. コルサントでジロが大暴れ!す、すごい面白かった。最後ジロが死んでいく時に流れる劇伴も、あまりスターウォーズらしくない音楽でした。徐々にパルパティーンジェダイとの溝が深まってきているように思える。

b1.