放電2

a1. 『テスラ エジソンが恐れた天才』(マイケル・アルメレイダ)

a2. 『狂ったメス』(ロバート・ハートフォード・デイヴィス)

a3. 『宇宙人の画家』(保谷聖耀)

a4. 『ファイヤー・イン・ザ・スカイ』(ロバート・リーバーマン

 

 

 

今日は放電デー2日目。

面白い記事があったので添付。「ニコラ・テスラと殺人光線」はわりかし有名な話か。

www.sciencehistory.org

 

 

 

a1.

コロラド実験パートはどのように映像化されようが面白くなる気がする。このような映画の作りならば、『古代の宇宙人』や『テスラファイル』を見るべきであった。もっとオカルトに寄ったテスラ映画を見たく、その点『プレステージ』はよくやっていたようだ。イーサン・ホークのテスラは板に付いていた。

 

a2.

『顔のない眼』フォロワーであることは間違いないが、陰湿さは皆無でコミカル。期待していた放電場面は存在せず、外科手術用の高熱レーザーで全員が焼かれるエンディングであった。「全員が」という点が肝要で、うねるレーザーの動き方が人間の意図に従ってはいないのが面白い。不慮の事故で顔が焼け爛れてしまったのがコトの発端で、救おうと尽力した人間までもが焼け死ぬことで幕引き、というのは因果応報とは言わないでしょう。野獣、と呼ばれる下品な警官?らが死ぬ様を見て一体何を感じろと。物足りないのは、「ビーム」を可視化して欲しかったところ。

 

a3.

「宇宙人」をAlienation=異化効果から解釈してみせていたのが後藤護さんだったが、いやいや『ファイヤー・イン・ザ・スカイ』顔負けのれっきとしたアブダクト場面はしっかりあるではないか。さらにアブダクトの影響が個人の人生を左右するだけに留まらず、K市/学校全体にまで波及し、段々とたがが外れてゆく。その「たがの外れ方」も見物で、序盤からすでにシネマカメラで撮られた映像とフリー素材映像・写真と、異なる質の映像が混在しており見づらいことこの上ないのだが、K市/学校が崩壊に近づくにつれて更に混乱を極め、終いには実写→アニメへと次元が下ってしまう。ただそこで終わらないのが良いところで、アニメから更に次元が下り、純粋な「光」だけにまで至る。表象可能なものの臨界点に到達してしまった「虚無ダルマ」の最終形態である。セミョーン・アラノヴィッチ『北極圏対独海戦1944/トルペド航空隊』でも平然と異なる質の映像を混在させていたが(カラー/モノクロ、ミニチュア/実写/資料映像/写真が入り乱れる)、活劇的つなぎでそれらに串を通しているのに対し、本作は「光」なのだなあ。他に際立っていると感じるのは中盤のクレジットシークエンスで、堂々と打ち出される役者の名前など、全く知らない。そんな無名の素人たちがこれからスクリーン上で暴れ回る宣言と受け取り、目頭が熱くなる。『戦艦ポチョムキン』を見て思わず立ち上がってしまうのと同じ心情。いやでも思えば所詮「漫画のキャラ」として片づけられてしまいそうな彼らをあれだけ立たせているのだから、誰が主人公かなんて愚問。長嶌さんの言う、「誰もが主役であり、脇役でありうる」映画とはこのことか(この表現は1990年代以降よく耳にするのだが、それには当然レンフィルム映画祭の存在がある)。物語の構造を見ても、虚無ダルマに寄り添うようにはじまる本作は、交通事故を起こして宇宙に飛んで行ってしまってからの虚無を終始突き放して描いていた。しかしアニメパートに入って再び、虚無に寄り添い始める。このような付かず離れずの関係が特異。あとこれは、単純なアナロ自己満足にすぎませんが、「演説」(本作ではラップ集会)と「自作の兵器で身を滅ぼす悪役たち」という展開をクライマックスに用意している点は『成吉思汗の仮面』と類似している。死すフー・マンチューに対し、虚無ダルマ自身は救済されて観音と合一、さらに謎の老人による一言を添えているのが本作の倫理観である。

 

a4.

非常にウェルメイドな映画であり『未知との遭遇』のようなぬるい映画はこれを見てしっかりと勉強して欲しい。本作ではしっかりと検体場面などが用意されており、これがとにかく恐い。無重力表現もかなり見れるものに仕上がっている。アブダクトされた「後」の人生に焦点を当てており、明らかに違う人となって帰ってくるのは、これもまた真に迫っている。ただ、ラストはいただけない。マイクも誘拐してしまうんじゃないかと最後までハラハラしてしまったが。良作です。