「スターシップ・トゥルーパーズ」の同腹『荘園の貴族たち』

Malmkrog  (Cristi Puiu , 2020)

 

クリスティ・プイユ『荘園の貴族たち』を見ました。

クリスティ・プイユ『荘園の貴族たち』



静謐な印象を与えるポスターをもつ本作が、ヴァーホーヴェンスターシップ・トゥルーパーズ』の同腹である、といささか穿ったタイトルを付けてしまったが、期せずして、同じルーマニア人監督であるラドゥ・ジューデ『アーフェリム!』を鑑賞した際にも同じ感覚を抱いた。「同腹」というからには母親を明示しなければいけないだろう。その母親とは、ルイス・ブニュエルである。ただし多くの論者によって評されているように、『皆殺しの天使』を思わせる設定、からブニュエルを連想したわけではなく、あくまでもその娘『スターシップ~』と同じ特質を持つが故の連想である。あえて女性にした由縁は、(これも直観以上の何ものでもないのだが)男の顔よりも、女性の表情を美しく捉えることに成功している映画であるからだ。

 

『スターシップ~』やブニュエルとの血統を証明するのは、自分にとっての正しさを信じて止まないキャラクターの存在と、そんなキャラクターに寄り添う「素振り」を見せるカメラとの関係性にあるだろう。カメラは登場人物たちの行動や思想に賛同しているように見せるが、時にカメラの本質である「監視カメラ」的な性格を見せることにより、対比が生まれ、見ている観客は素直に賛同をすることが出来ず、思考を促される。そのような効果を意図的に狙って、かなりの成功を収めている映画だと言える。その辺りが、同腹たる由縁なのだ。

 

「監視カメラ」的な性格は、随所に渡って見られる。その違和感は、映画のファーストショットから私を捉えた。一人の少女が立ったりしゃがんだりしながら、雪原をぶらぶらと彷徨く様子を、ロングで撮影した映像から、映画は始まる。一見固定ショットのように思えるこの映像は、じっくり見ると、少女の細かな動きに合わせてふらふらと左右に揺れているのだ。同じような揺れるカメラワークは、居間?に集まった五人を捉える際にも登場する。決してカメラは話者だけを追い続けるわけではなく、ひたすら聞き手にまわる人の様子をも収める。このようなカメラワークにより、カメラの中央に位置する人物(それが話者であろうと、聞き手であろうと)が映像を支配することになる。数秒前は、兵役の不必要性をしきりに唱える話者を中心に据え、彼の思想にうむうむと頷きながら耳を傾けていたのが、数秒後にはそんな彼の聞き手にまわる女性に中心がシフトすることで、私の軸足もそれに合わせて動かされ、つい兵役の必要性を考え始めてしまう。会話は主に、長いワンショットで構成されているのだが、その中で映像の中心がふらふらと推移してゆく。推移が起こるキッカケは、必ず登場人物の動きである。じっと立ったまま会話が続けられる中、不意に動いてしまった人物を、カメラはまるで失認症的にフォローしてしまうのである。会話の聞こえ方を左右する些細な動きを、カメラだけが丹念にフォローすることにより、我々観客にだけ思考を促す。決して登場人物たちが豊かな思考をしているとは限らないことが重要だ。カメラは時に、貴族たちの議論を追わず、召使いたちの作業を追うために、先ほどまで議論が行われていた会場に残り続ける。このような見せ方も、貴族たちの視野の狭さがどこか透けて見えるように思える。

 

議論は時に膠着状態に陥ってしまうことがあるが、そんな時、不意な動きや執事の不意の登場によって、また議論は動き出し、話者は別の人物に移る。あくまでも映像的にはそう見えるのである。このように、本作では、議論を支配しているのは「動き」なのである。本作の原作はウラジーミル・ソロヴィヨフの『三つの会話』という哲学書であり、おそらく「動き」についての記述など微塵もないであろう書物を如何に映画的に翻案するかが見所だと踏んでいたのだが、哲学的な「静」の議論と映画的な不意の「動き」を上手く融合しており、見事である。

 

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では議論は、いかにして中断されるのだろうか。ここでも再び「動き」である。例えば第一章では若い女性オルガの突然の体調不良により、議論は不意に中断される。オルガの体調不良は、失神して床に倒れるという動きにより表現される。

やはり印象的な中断のされ方は、第三章において、突然屋敷を暴力が支配し、銃殺されてしまう場面であろう。この章では、上で述べたようなふらつくカメラワークは見られず、議論参加者の顔を捉えたクローズアップだけで構成され、カッティングも比較的素早い。そのため議論が膠着してしまった時に、その空気感を打破する不意の動きが中々生まれづらく、議論が流動的に流れることがない。険悪なムードに陥る中、それが臨界点に達したときに、突如銃殺される。【クローズアップによる切り返し⇒死】という論理が作品中を貫く。第五章でも、再び切り返しが見られ、ここでは、議論は膠着状態のまま、結論を導くことが出来ずに終了する。第三章のように、直接的な暴力は見られないが、「死」は後に、「ロシア革命」「第一次世界大戦」として彼らの前に姿を現わすだろう。そのとこに、彼らは気付く由もないのである。

『スターシップ~』における残酷描写は、ここではふらふらと漂うカメラワークに取って代わる。一見まるで異なるものだが、どちらもわれわれに思考を促す映像表現であり、そして、カメラの前の登場人物たちは、まるで思考にストッパーがかかってしまったかのように、自らの正しさを信じて止まないのだ。