お前はナガサキ・モナム-ルを見たいか

a1. 『ファントマ/Ⅰ.ギロチンの陰で』(ルイ・フィヤード)

a2. 『野蛮人として歴史に名を残しても構わない』(ラドゥ・ジュデ)

a3. 『クローン・ウォーズ/S2』#11-14

b1. 『オカルティズム 非理性のヨーロッパ』(大野英士)

 

 

傑作サイレント映画(シリアル)から現代の優れた映画まで。間にはオカルトを読み、充実した一日。昨日、高橋洋新作『ザ・ミソジニー』の特報が公開された。見るからにホラー映画なのだが(あえてホラーとしたのは、高橋洋映画にしては怪奇的な設定に見え、恐怖か怪奇か判別が付かないゆえ)、恐怖とミソジニーとが如何に掛け合わされるのかに注目する上で、興味深い文章があったのでメモを残しておく。

・研究者レヴィ=ヴァランジは、1910年発表の論文「心霊術と狂気」において、「交霊錯乱症」と名付けた病像の本質を論じ(…)、『交霊錯乱症にかかりやすい体質・傾向が存在する。それは、自由業で教育がある、神経症などの遺伝的形質をもつ、社会に対する異議申し立て者、政治的・思想的傾向をもつ異常者』と記した上で、そこにさらに『女性』と加えている。

上記の論文は、一度は学門の俎上にあがりかけた心霊術や霊媒を、再び周縁へと押しのける。その際「女性の狂気」として排除されている点は、まさに『ザ・ミソジニー』と関わりが深いように思われる。高橋洋は近作でジャンヌ・ダルクを取り上げている。そういえば以前、ジャンヌ・ダルクミソジニー(?)についてメモしていた。

 

男装も重大なモチーフの一つで、彼女は女の装いを拒否し続けるが、最後火刑台上に縛り付けられると女性的な身体のシルエットが暴かれてしまう、というのが輪をかけて残酷。

 

もっとも残酷に思うのはまさにこの、縛りつけられると紐が食い込んでしまうせいで胸がぐっと浮かび上がり、ジャンヌが「女であること」、さらに「譫妄であったこと」が公衆の面前で暴かれてしまう描写。これも何かの参考になるやも知れぬ。

 

 

a1.

ファントマの、一目見て分かる邪悪な顔が良い。第一話はエレベーターという装置の面白さを存分に引き出しており、映画史のかなり初期の段階からサスペンスを盛り上げる装置として用いられていたことを知る。エレベーターは、「中が確認できない」上に「動き続ける」のが面白い。観客に、カーテンつまり被膜一枚向こう側に彼奴が潜んでいるのでは、と想像させてしまえるのがファントマの強み。第三話はニュース演劇が題材で、これまた超面白い。映画における俳優の自己同一性について考えてしまう。最後に、ジューヴ警部は亡霊を見てしまう。

a2.

『アーフェリム!』は閉塞感のある、非常に風通しの悪い世界(というか別宇宙を覗き見ているような感覚に近く、その点にヴァーホーヴェンブニュエルに通ずる素質を見た)を舞台にし、ロマ人差別が当たり前のように跋扈する。作品に批評的な目線が導入されるのは、まず第一に映画を見る観客の倫理観に多くを負っているのと、第二に映画終盤、領地内で繰り広げられる大残酷、そして第三が貴族に雇われてロマ人逃亡者を追い詰める警官が思わず口にする、「私たちの行いを後世の人々は評価するのだろうか。果たして誇れるだろうか」という台詞。印象に強く残るこの台詞は、実は国民的英雄であるアントネスク元帥による言葉を18世紀の人々に落とし込んだものであった。そんな閉塞的な『アーフェリム!』に対し、『アンラッキー・セックス』では概ね我々、現代の観客の価値観と一致した一人の女性を介して現代のルーマニアカリカチュアする試みであり、第二部のビデオエッセイの効果もあって、最後の地獄の保護者会も見やすくなっている。本作の志向もおおむね『アンラッキー・セックス』に近い。しかし本作では『アーフェリム!』同様、まるで宇宙を覗き見るような奇妙な感覚に溢れており、さらに覗き見る先には現代のルーマニア人がいる、という複雑な構造を、「劇中劇」とそれを見る「観客」、実際に街中で(市役所の前?)上演している様子をドキュメンタリーとしてカメラに収めるという演出により、他作にもまして丁寧に提示しているように思える。実際の上演の場面は圧巻だ。地面に伏せられたユダヤ人たちに銃口を突きつけるルーマニア軍の隙を見て、一人のユダヤ人が脱出を図るのだが、逃げ出す先は観客席。将校による「汚いユダヤ人を捉えろ!」との命令にまるで従うかのように、嬉々とした観客たちが逃げたユダヤ人を再び収容所が設えられた舞台上に押し返す様子を映す、というアイデアは見事である。収容されたユダヤ人・ロマ人は燃やされながら死んでいくのだが、客達は「アントネスク元帥!」と拍手喝采。これには思わず演出家も頭を抱えてしまう。1941年のベッサビア・ブコビナ地方での虐殺を賞賛してしまう現代のルーマニア人たちにはユダヤ人への同情は感じられず、批判的な眼差しが向けられる。一体全体どうなっているのだ。ゲッベルスによると、かつては枢軸国の一国だったこともあるルーマニアは、「ドイツに次ぐ」反ユダヤ主義の国。この「ドイツに次ぐ」というのがポイントで、ドイツ軍より殺した数は少ないんだから良いじゃないか、と相対的に自国の行為を平凡にする思考が働いている。ドイツ兵は10人中10人殺したけど、我等は10人中5人しか殺さず、5人は逃したと。「虐殺」と「数の問題」が語られることになる。行政の文化政策課の男(彼はラドゥ・ジュデ作品常連)は「虐殺」を「数の問題」にすり替える大衆の思考と、演出家が「オデッサの虐殺」を、象徴的な事件だから、と特権的に取り上げる思考との間には(厭味な言い方で)違いがないと言う。ちなみに彼女はドイツ人の既婚者と愛人関係にあり、ルーマニアとは全く別の意味で、割り切った彼の態度との間で板挟みにされている(さらにヒューゴ・ボスについての言及も)。

現代の観客は残酷な映像など、ネットで探して見とるわい、それが一般的だわい、せやからわざわざ劇中で残酷なものなど映して物議を醸す必要などないわい!と豪語する職員の言葉は『アンラッキー・セックス』の自己検閲版に通ずるテーマ。しかしそれすらも賞賛されてしまうのだから、かの職員も失笑である。演出家と役者たちが戦車の上でボニー・Mを流し聞きする場面が印象に残る。タル・ベーラしかり、東欧の文化事情にはときどきドキリとさせられる。最近、映画で死体を映すことに過度に反応してしまう自分がいる。プラトンの有名な、死体だけが戦争の最期を~との言葉を思い出し、映画においてもそれは有効だ。映画の中の死体は、どうしてこうも雄弁なのだろうか。首つり死体の、時間が経過したせいで、首がおかしな角度にひん曲がり、さらににょーんと伸びてしまっている奇っ怪な死体など。本作でも死体(写真)をかなり長い時間映し続けるのだが、それくらいの尺は必要である。ラドゥ・ジュデは人物をカリカチュアしてみせるのが面白く、保護者会場面などまさいそうであり、本作でも演出家の愛人は、裸でいるか制服(機長服)を着ているかのどちらか。

a4.

#11. テラ・シヌーベ回(『オビワン』にて死体が保存されていたマスター、普段は図書館の司書?)。シヌーベはおそらくヨーダとほぼ同期で、久方ぶりじゃの、と声を掛け合う姿には不思議と涙。コルサントでの超人チェイスから列車人質にまで流れ込む。乗客にはビス族(バークウィン・ダンぽい服装)がおり、怯えていた。ラストは、ジェダイとしての立ち居振る舞いを身を以て示すシヌーベの教えを後輩達へ伝えるアソーカ。素晴らしい回だった。こういうことやねん。

#12. 見たかったデス・ウォッチ回。マンダロアの衛星がコンコーディア月。プレ・ヴィズラが登場しダークセイバーを振り回していた。ディン・ジャリンよりもよく使いこなしている。しかしオビワンの方が一枚上手で、すかさず接近戦に持ち込む辺りは流石の将軍。プレとパズ・ヴィズラの関係が気になる所で、そういえばダークセイバーはヴィズラ家の所有物だとパズは主張していた。続きが気になるなあ。サティーン公爵とオビワンは元々恋仲なの?

#13. やはり恋仲であった。コーディーとレックスは本当に頼りがいがあるなあ。

#14. デス・ウォッチの本格的な活躍はお預け。パルパティーンの計画としては詰めが甘いように思えるのだけど、あれで良かったのだろうか。

b1.

フーコーによるエピステーメー=認識の断絶という観点が非常に重要視されている。そのため、一般的にオカルト史において重要な年として挙げられるハイズヴィル事件の1848年などは、取り立てて特権視されず(当然重要ではあるのだが)、大野氏によれば、「毒薬事件」の1672年・「カトリシズム復興」の1885年が、認識に亀裂を生じせしめた事件として、特に記憶されねばならない。また「マリア派異端」についての記述が豊富で、とくにブーランについては非常に興味が湧いた。著者はユイスマンス研究がご専門で、その繋がりから、度々彼の名前を登場する。ユイスマンスにようやく手を出そうという気になってきた。