映画のディスコミュニケーション

a1. 『死者からの手紙』(コンスタンティン・ロプシャンスキー)

a2. 『長い見送り』(キラ・ムラトヴァ)

b1. 『マクベス』(ウィリアム・シェイクスピア

 

 

a1.

ミニチュアで描かれる大カタストロフに、核爆撃によるショックで一言も言葉を発さない子供たちの声が独白として重なる場面が白眉で、これには異化効果がある。博物館からシェルターの外までの、瓦礫の山の狭い間を通り抜けるいつものルートや死体搬送用のトロッコ列車など、およそ少ないバジェットでディストピアを作りあげてしまう手腕に長けた映画。博物館には、とある芸術家、の息子がいるのだが、彼はしきりにカメラの方向を見る。ゲルマン作品との類似項を発見。しかし、カメラを見る、とは何と罪深い行いか。たったそれだけの行動で、フィクション世界の牙城が崩れ去ってしまうのだから。ただ本作では冒頭から主人公の教授による、死んだ息子に宛てた手紙が独白として画面に重なっており、また直接的に今映画を見ている観客を名指す文句もあり、必然性はあると言えるが。そんな息子は、父親が自殺してしまった際、とんでもない表情を浮かべながら再びカメラを見つめ、「見るな」と言わんばかりに銀シートで間を仕切ってしまう時に特異なつなぎが見られた。他にも、カタストロフに至る前、白い光線がビカッと発散する前に悶える女性の顔のアップが唐突にインサートされるのには驚いた。ここでも再び「顔」、そして「大事件」がつながれている。また、裸電球の明かりに乱れが生じる演出も記憶に残る。

a2.

このしつこさは何だ。ギャグになっている、傾斜のある机に置いた万年筆が何度も転がり落ちてしまう場面や、火消ししたはずのマッチの火が消えておらず、引き出しが火を噴く場面などや、女の髪の毛がファサッとほぐれるさまを敢えてつなぎ間違えているのは『カラビニエ』、などは分かりやすい例で。ここまで「編集」というものが前景化してくるのはソヴィエトだなあと感心する。最後、「どこにも行かないよ」とサーシャが言う場面では不覚にも涙。素晴らしかった。あの演歌みたいな場面には、まるで『ブレードランナー』のような、同様のマジックが働いているのだ。まさに「映画のディスコミュニケーション」と評したくなるような演出は、見ていると胸が詰まり、ヴェルナー・シュレーターの映画(『マリーナ』・『愚か者の日』)を見ている時の感覚に非常に近い。

b1.

トマス・ド・クィンシーによる批評文が大変素晴らしかったので、該当箇所及び抜粋を引用。

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夫人:私の手も、おなじ色に、でも、心臓の色は青ざめてはいない、あなたのように(戸を叩く音)南の戸を叩いている。戻りましょう、部屋へ。ちょっと水をかければ、きれいに消えてしまう、何もかも。訳もないこと!勇気をどこかへ置き忘れておいでらしい。(戸を叩く音)そら!また、叩いている。さ、ナイトガウンをお召になって、誰かに起こされても、ずっと驚かずにいたと感づかれないように。そんな、何かに心を奪われているような様子は禁物、元気をお出しになって。

マクベス:自分のやったことを思い出すくらいなら、何も知らずに心を奪われていたほうがましだ。(戸を叩く音)ああ、その音でダンカンを起こしてくれ!頼む、そうしてくれ、出来るものなら!

 

私の読みは非常に浅いため、ここの(戸を叩く音)には全く反応できずスルー。

 

少年時代以来、私には、「マクベス」の中にどうしても理解できぬくだりが一箇所あったのである。それはダンカン王殺害の直後の扉を叩く音なのだが、この音がどうにも説明できない不思議な効果を与える、ということなのであった。つまり、あの扉を叩く音は殺人犯マクベスに対し、特異な恐怖と深い厳粛感とを与えるのだが、長年の間考え抜いたにもかかわらず、なぜそういう効果を生じるかを、私は理解できなかったのである。(中略)加害者の心中には、嫉妬、野望、復讐、憎悪などの激情野荒らしが吹きすさび、地獄の様相を呈しているにそういない。その地獄を観客に覗かせねばならないわけである。「マクベス」の場合もそうである。人間的な感情を消え、悪魔的な心が忍び込んできたことを表現し、観客にそれを感じ取らせねばならないのだ。舞台の上には別の世界が忍び込んできた。二人の殺人者は、人間の世界から離脱してしまっている。(中略)二人とも悪魔のように見えてくる。悪魔の世界が突如として現出したのだ。(中略)ダンカン殺害が終わったとき、暗黒の作業が完了したとき、暗黒の世界は一時消え失せねばならない。扉を叩く音がきこえてくる。そしてこの音はこそは、反作用が始まったことを観客の耳に知らせるのである。人間の世界が悪魔の世界に逆流してきたのであり、生命の脈拍が再び鼓動を始めたのである。そして、人間の世界が蘇生したということこそ、それまでの中絶期間を、恐るべき暗黒の世界を、痛切に感じさせるわけである。

 

たった一つの音によって、世界に裂け目が生じる。フィクションがフィクションではない何か奇妙なフォルムを持ち出すのはまさにこういう瞬間なのだ。素晴らしい論考。