ガッツボーズ&ジ・エンドがいいのだ

a1. 『ファントマ/Ⅱ.ジューヴ警部対ファントマ』(ルイ・フィヤード)

a2. 『ファントマ/Ⅲ.ファントマの逆襲』(ルイ・フィヤード)

a3. 『ノロワ』(ジャック・リヴェット

a3. 『クローンウォーズ/S2』#15-17

 

 

a1.

最高!列車アクションから幕を開ける本作。ファントマ団も警察も大幅に増員され大きくスケールアップ、画面がより騒々しくなる一方、沈黙の処刑人(silent excecutioner)こと大蛇が大活躍。首を切断されながらも、獲物を捉えるため藻掻く姿は圧巻。見事ジューヴ警官らを出し抜き、爆弾で一網打尽、そして大きくガッツポーズでエンド。完璧じゃないですかこれは。前作のエレベーターに引き続き、今作では第一話の樽、第三話の空調、第四話の貯水槽、と両者さまざまな場所に潜む。『ドリーの冒険』以来の映画的作法を身につけている。またファントマは偽の腕、ジューヴ警部は肉弾スパイクと、服の下にも色々忍ばせ、騙し合う両者。面白いのは客室にファントマ団が一斉になだれ込む場面で、現実的に考えれば、明らかに無理があることをさらっと成し遂げている。ロケ撮影が印象的であり、パリの街での尾行など、この時代で既にここまで完成されていることに驚く。水辺も良かった。

a2.

ジューヴ警部の潜入捜査。カメラがパンした先にはかならずや死体があるのだから、何とも恐ろしい世界。奇妙なリストが登場、あれは犯罪の指令書ということなの?最後には、死体から手の皮を剥ぎ取りグローブにする、というとんでもなく猟奇的なオチが明かされ、エンド。一作目に引き続き留置場が登場するが、こちらも再び冤罪であり、フランスだからかどうしてもドレフュス事件を連想してしまう。至る所に偏在するファントマと同じように、反ユダヤ主義も偏在する…とか言いたくなってくるが、そこまでのメタファーを背負わせているかどうかは検討の余地大いにあり。ただ、「映画」と「冤罪」は相性が非常に良いと思うのだ。

a3.

酔っ払いのような映画で混乱しっ放し。不可視の規則が敷かれる古城にて繰り広げられる復讐劇は、ちょうど映画の真ん中で劇中劇が用意されており、その劇の内容は数時間前にまさにその城で起こった毒殺事件を再現したものである。その劇を境に、ジュリアとモラグの関係性は変容するのだから、ラフな印象が強いものの、構成の妙である。海賊団の連中が、一言も交わすことなく、天井に吊された縄にぶら下がって揺れる場面の怪奇的な画作りが強く印象に残る。規則でがんじらめの要塞・古城に比べて、屋外、主に洞窟付近や草原では、現実の規則を大きく凌駕する。死体が甦ったり、ジュリアが魔術を使ってルドヴィコを消し去ってしまったり、モラグが指を鳴らすと昼夜が逆転してしまったりと。この昼夜逆転や、フィルターをかけることによって画面の明るさがガラッと一変してしまう演出は繰り返される、はじめは、ジュリアが反乱勢に命を狙われる場面で、新月↔満月が二度繰り返される。終盤の仮面舞踏会で、その演出は極まり、言うなればサイレント映画的な、(たまたま今見ているわけだけど)フィヤードのような雰囲気を醸し出す。より犯罪映画的な色合いが濃いのは前作の『デュエル』だそうで、こちらは必ず見に行こう。気になる点として、かならず劇伴の音源(音楽隊)を映している。これは一体。『セリーヌとジュリー』でも、ジュリーが男と電話をする場面で、電話口にいるはずの男の声は、あきらかに同室にいるように聞こえる、といったおかしな音の実験を試みている。

a4.

#15. クローン戦争期のコルサントは特に治安が悪い。毒殺されるパドメの伯父。嫌疑をかけられるは、カミーノアン。前回から引き続きよく警察が出てくる。結局は増兵が採択されてしまう、というパドメからしたら渋いエンディング。

#16. ユラーレンとアナキンの信頼関係が泣かせる。かつての仇敵トレンチが登場。重要な戦闘機としてステルス機が導入される。

#17. 七人の侍回。尺の関係もあると思うが、皆で作戦会議をする場面も映して欲しいところ。

お前はナガサキ・モナム-ルを見たいか

a1. 『ファントマ/Ⅰ.ギロチンの陰で』(ルイ・フィヤード)

a2. 『野蛮人として歴史に名を残しても構わない』(ラドゥ・ジュデ)

a3. 『クローン・ウォーズ/S2』#11-14

b1. 『オカルティズム 非理性のヨーロッパ』(大野英士)

 

 

傑作サイレント映画(シリアル)から現代の優れた映画まで。間にはオカルトを読み、充実した一日。昨日、高橋洋新作『ザ・ミソジニー』の特報が公開された。見るからにホラー映画なのだが(あえてホラーとしたのは、高橋洋映画にしては怪奇的な設定に見え、恐怖か怪奇か判別が付かないゆえ)、恐怖とミソジニーとが如何に掛け合わされるのかに注目する上で、興味深い文章があったのでメモを残しておく。

・研究者レヴィ=ヴァランジは、1910年発表の論文「心霊術と狂気」において、「交霊錯乱症」と名付けた病像の本質を論じ(…)、『交霊錯乱症にかかりやすい体質・傾向が存在する。それは、自由業で教育がある、神経症などの遺伝的形質をもつ、社会に対する異議申し立て者、政治的・思想的傾向をもつ異常者』と記した上で、そこにさらに『女性』と加えている。

上記の論文は、一度は学門の俎上にあがりかけた心霊術や霊媒を、再び周縁へと押しのける。その際「女性の狂気」として排除されている点は、まさに『ザ・ミソジニー』と関わりが深いように思われる。高橋洋は近作でジャンヌ・ダルクを取り上げている。そういえば以前、ジャンヌ・ダルクミソジニー(?)についてメモしていた。

 

男装も重大なモチーフの一つで、彼女は女の装いを拒否し続けるが、最後火刑台上に縛り付けられると女性的な身体のシルエットが暴かれてしまう、というのが輪をかけて残酷。

 

もっとも残酷に思うのはまさにこの、縛りつけられると紐が食い込んでしまうせいで胸がぐっと浮かび上がり、ジャンヌが「女であること」、さらに「譫妄であったこと」が公衆の面前で暴かれてしまう描写。これも何かの参考になるやも知れぬ。

 

 

a1.

ファントマの、一目見て分かる邪悪な顔が良い。第一話はエレベーターという装置の面白さを存分に引き出しており、映画史のかなり初期の段階からサスペンスを盛り上げる装置として用いられていたことを知る。エレベーターは、「中が確認できない」上に「動き続ける」のが面白い。観客に、カーテンつまり被膜一枚向こう側に彼奴が潜んでいるのでは、と想像させてしまえるのがファントマの強み。第三話はニュース演劇が題材で、これまた超面白い。映画における俳優の自己同一性について考えてしまう。最後に、ジューヴ警部は亡霊を見てしまう。

a2.

『アーフェリム!』は閉塞感のある、非常に風通しの悪い世界(というか別宇宙を覗き見ているような感覚に近く、その点にヴァーホーヴェンブニュエルに通ずる素質を見た)を舞台にし、ロマ人差別が当たり前のように跋扈する。作品に批評的な目線が導入されるのは、まず第一に映画を見る観客の倫理観に多くを負っているのと、第二に映画終盤、領地内で繰り広げられる大残酷、そして第三が貴族に雇われてロマ人逃亡者を追い詰める警官が思わず口にする、「私たちの行いを後世の人々は評価するのだろうか。果たして誇れるだろうか」という台詞。印象に強く残るこの台詞は、実は国民的英雄であるアントネスク元帥による言葉を18世紀の人々に落とし込んだものであった。そんな閉塞的な『アーフェリム!』に対し、『アンラッキー・セックス』では概ね我々、現代の観客の価値観と一致した一人の女性を介して現代のルーマニアカリカチュアする試みであり、第二部のビデオエッセイの効果もあって、最後の地獄の保護者会も見やすくなっている。本作の志向もおおむね『アンラッキー・セックス』に近い。しかし本作では『アーフェリム!』同様、まるで宇宙を覗き見るような奇妙な感覚に溢れており、さらに覗き見る先には現代のルーマニア人がいる、という複雑な構造を、「劇中劇」とそれを見る「観客」、実際に街中で(市役所の前?)上演している様子をドキュメンタリーとしてカメラに収めるという演出により、他作にもまして丁寧に提示しているように思える。実際の上演の場面は圧巻だ。地面に伏せられたユダヤ人たちに銃口を突きつけるルーマニア軍の隙を見て、一人のユダヤ人が脱出を図るのだが、逃げ出す先は観客席。将校による「汚いユダヤ人を捉えろ!」との命令にまるで従うかのように、嬉々とした観客たちが逃げたユダヤ人を再び収容所が設えられた舞台上に押し返す様子を映す、というアイデアは見事である。収容されたユダヤ人・ロマ人は燃やされながら死んでいくのだが、客達は「アントネスク元帥!」と拍手喝采。これには思わず演出家も頭を抱えてしまう。1941年のベッサビア・ブコビナ地方での虐殺を賞賛してしまう現代のルーマニア人たちにはユダヤ人への同情は感じられず、批判的な眼差しが向けられる。一体全体どうなっているのだ。ゲッベルスによると、かつては枢軸国の一国だったこともあるルーマニアは、「ドイツに次ぐ」反ユダヤ主義の国。この「ドイツに次ぐ」というのがポイントで、ドイツ軍より殺した数は少ないんだから良いじゃないか、と相対的に自国の行為を平凡にする思考が働いている。ドイツ兵は10人中10人殺したけど、我等は10人中5人しか殺さず、5人は逃したと。「虐殺」と「数の問題」が語られることになる。行政の文化政策課の男(彼はラドゥ・ジュデ作品常連)は「虐殺」を「数の問題」にすり替える大衆の思考と、演出家が「オデッサの虐殺」を、象徴的な事件だから、と特権的に取り上げる思考との間には(厭味な言い方で)違いがないと言う。ちなみに彼女はドイツ人の既婚者と愛人関係にあり、ルーマニアとは全く別の意味で、割り切った彼の態度との間で板挟みにされている(さらにヒューゴ・ボスについての言及も)。

現代の観客は残酷な映像など、ネットで探して見とるわい、それが一般的だわい、せやからわざわざ劇中で残酷なものなど映して物議を醸す必要などないわい!と豪語する職員の言葉は『アンラッキー・セックス』の自己検閲版に通ずるテーマ。しかしそれすらも賞賛されてしまうのだから、かの職員も失笑である。演出家と役者たちが戦車の上でボニー・Mを流し聞きする場面が印象に残る。タル・ベーラしかり、東欧の文化事情にはときどきドキリとさせられる。最近、映画で死体を映すことに過度に反応してしまう自分がいる。プラトンの有名な、死体だけが戦争の最期を~との言葉を思い出し、映画においてもそれは有効だ。映画の中の死体は、どうしてこうも雄弁なのだろうか。首つり死体の、時間が経過したせいで、首がおかしな角度にひん曲がり、さらににょーんと伸びてしまっている奇っ怪な死体など。本作でも死体(写真)をかなり長い時間映し続けるのだが、それくらいの尺は必要である。ラドゥ・ジュデは人物をカリカチュアしてみせるのが面白く、保護者会場面などまさいそうであり、本作でも演出家の愛人は、裸でいるか制服(機長服)を着ているかのどちらか。

a4.

#11. テラ・シヌーベ回(『オビワン』にて死体が保存されていたマスター、普段は図書館の司書?)。シヌーベはおそらくヨーダとほぼ同期で、久方ぶりじゃの、と声を掛け合う姿には不思議と涙。コルサントでの超人チェイスから列車人質にまで流れ込む。乗客にはビス族(バークウィン・ダンぽい服装)がおり、怯えていた。ラストは、ジェダイとしての立ち居振る舞いを身を以て示すシヌーベの教えを後輩達へ伝えるアソーカ。素晴らしい回だった。こういうことやねん。

#12. 見たかったデス・ウォッチ回。マンダロアの衛星がコンコーディア月。プレ・ヴィズラが登場しダークセイバーを振り回していた。ディン・ジャリンよりもよく使いこなしている。しかしオビワンの方が一枚上手で、すかさず接近戦に持ち込む辺りは流石の将軍。プレとパズ・ヴィズラの関係が気になる所で、そういえばダークセイバーはヴィズラ家の所有物だとパズは主張していた。続きが気になるなあ。サティーン公爵とオビワンは元々恋仲なの?

#13. やはり恋仲であった。コーディーとレックスは本当に頼りがいがあるなあ。

#14. デス・ウォッチの本格的な活躍はお預け。パルパティーンの計画としては詰めが甘いように思えるのだけど、あれで良かったのだろうか。

b1.

フーコーによるエピステーメー=認識の断絶という観点が非常に重要視されている。そのため、一般的にオカルト史において重要な年として挙げられるハイズヴィル事件の1848年などは、取り立てて特権視されず(当然重要ではあるのだが)、大野氏によれば、「毒薬事件」の1672年・「カトリシズム復興」の1885年が、認識に亀裂を生じせしめた事件として、特に記憶されねばならない。また「マリア派異端」についての記述が豊富で、とくにブーランについては非常に興味が湧いた。著者はユイスマンス研究がご専門で、その繋がりから、度々彼の名前を登場する。ユイスマンスにようやく手を出そうという気になってきた。

正真正銘のスター

a1. 『ドクトル・マブゼ第一部大賭博師』(フリッツ・ラング

a2. 『ドクトル・マブゼ第二部犯罪地獄』(フリッツ・ラング

a3. 『Ms.マーベル』第一話

a4. 『ピースメイカー』第六-八話(ジェームズ・ガン

 

決めた。今日からはヨーロッパ製活劇映画(主にフランス・ドイツ・イタリア、ユーロクライムも含む)を見まくる。今年、残り半年の目標はイルマ・ヴェップ辺りからはじめ、ゲルト・フレーベくらいまでを順に追っていきたい。

 

a1.、a2.

素晴らしすぎて。マブゼ映画の偉大な点は、以下に示すようなあからさまに誇張された、素面で聞いては失笑に値するような台詞(「私は国家と交戦状態にある。そう、私が国家だ」)を声高に主張できてしまうキャラクターを発見してしまった点でしょう。映画では時として「たったの一言」で、画面上に映る全てが揺らぎ、虚実が曖昧となって、力関係までをも覆してしまうことがあるが、ドクトル・マブゼは劇中そればかり。「ギャンブルはギャンブルのためにする」「金は金を生み出す」と豪語する彼は賭けに勝って一喜一憂することはなく、次なる賭を見据える。無尽蔵な体力をもつマブゼを前にすると相手はただ潰れていくだけで(第二部・第六幕で不覚にも眠ってしまった一瞬の隙を突かれて国家権力に先手を打たれるのは何ともマブゼらしい)、そんなマブゼの異常さは、壁に取り付けられたサイズ感が非常に大きな時計によって示される。客観的な視点が介在することになる、しかしラングの撮る時計はそんな冷静には見えず、どこか強迫観念的であり、時間すらもマブゼは支配しているように見えてきてしまうのだから、一体全体どんなマジックが働いているんだ。思い返せば、第一部の副題は、AN IMAGE OF TIMEであり、既に時間について示唆されていたのだった。大賭博師であり、稀代の大犯罪者でもあり、奇術師でもあり、精神分析医でもあり、オカルトも囓っていて、大衆の扇動者でもある…数多ある役を代わる代わる演じまくるマブゼは、正真正銘のスターである。決して、スターが映画に出演しているのではない。さまざまな役どころを演じまくる器としてのスター、という構造がマブゼを責め立てているのである。ひたすらギャンブルのためにギャンブルをするマブゼと迫り来る時計との場面に、そんな構造が可視化されている。そんなマブゼに対し、犯罪の爪があまい、などと言うなかれ。彼は発狂しないと終われないのだから。第一部の中盤までには主要キャラクターはほとんど出揃うのだが、物語が終わりに近づく=マブゼの発狂に近づく予感として、特に第二部、気が狂った人々が次々と死んでいき、残されたキャラクターの数が少なくなることによって示される点は指摘しておきたい。他では中々見られることのない感覚である。

a3.

今後さらにパキスタン風味を醸し出して欲しい。カマラ・カーンは原作では一応インヒューマンズの一員(ポスト・インフィニティサーガ)とのことで、ストレンジにもブラックボルトが出てきたことだし、『インヒューマンズ』を見ないといけない。あまりの評価の低さに中々手が出ないが。コミックでのキャプテン・マーベルそのままのどエロのコスプレ女が出てくる。実写にポップなアニメーション画を書き込むのはすでにクリシエと化した感があり、素直にノれない。『9時から5時まで』『ルーニーテューンズ・バックイン・アクション』『ザ・スーサイドスクワッド』等。本作でもスマホ問題が浮上。これをポップな字体と組み合わせたのはアリ。『ホークアイ』と同じくらい地味な話かと思いきや結構派手で驚いたが、よく考えればキャプテン・マーベルだから当たり前か。

a4.

素晴らしい!ジェームズ・ガン最高傑作。

マニエリスム的屍、フィロソフィカル・ゾンビ?

a1. 『セリーヌとジュリーは舟で行く』(ジャック・リヴェット

a2. 『赤い夜/影の男』(ジョルジュ・フランジュ

 

 

明日はモンス・デジデリオの画集が届くはず。なんやかんや忙しいから週末まではお預けかな。土曜日に読み込もう。それから私の本棚の積ん読本の中でも異彩を放つ背表紙の『アドムルコ会全史』(文字が金色でピカピカ輝く)にそろそろ手を付けようかな、なんて考えていた一日。ただ、『ピラネージ』の余韻をもう少し味わいたく、小説はまだいいかも。

ウロンスキー(ヴロンスキーとも表記される)との邂逅が、レヴィ『高等魔術の教理と祭儀』に与えた影響の大きさを知る。ウロンスキーは数学者であり科学者であったが、後半生では数秘術論理や永久機関等を研究・開発しており、下図はウロンスキーが製作を試みたキャタピラ風の乗り物。最も心惹かれるのは「予言機械」(プロニヨメートル)と呼ばれる未来を予知できる装置で、これはウロンスキーの死後失われていたが、のちにレヴィの所有へ帰したそう。

 

いやあ、入門編的な初級の書物ながら、面白くてずっと読んでしまう。タロットカードの起源を(本当は15世紀のイタリア・フランスに生まれた)エジプトに求め、それを受けて論を発展させた(例の「エノク創世記」のこと)レヴィ。この18世紀末の辺りから、何やらマインドセットが大きく変わりつつある予感がしますね。それは多少なりとも現代にまで受け継がれている所はあるのではないか、と。

 

a1.

いやはや、凄いものを見た。本作の種映画が『不思議の国のアリス』だと気付いたのが中盤くらい。というのもビュル・オジェとその恋敵がそれぞれ赤と青の服を着て競い合う場面でピンと『マトリックス』を連想してしまい、そうしたら色々と繋がって見えてきてしまう(『マトリックス』が『アリス』を参照しているのは言うまでもない)。不可思議な始まり方をする本作、はじめはゲームをやっているというマインドセットでなければ会話ができない二人を描く、一見ただただお茶目だが、内実は「演技」についての「演技」なのではないか、などと勘繰りながら、つまり自身の瞳を二重化しながら見進める。それはそれで面白い映画になっており、お互いに相手の存在に気付きつつも目を逸らしながらの追っかけ合いは、見終わった今なら「白いウサギか」と納得するが、見ているまさにその時にはセリーヌとジュリーの芝居が二重に見え、無駄なこととは分かりつつも「本心」を探ろうとしていた。ジュリーの恋人?ギル-を騙す場面なんて、めちゃくちゃ最高だった。ギル-から受け取った結婚指輪を公園で読書をしている女性へ手渡す。この映画自体、ジュリーが読書をする場面から始まっているが、そこら辺で本を読める環境があるフランスは良いですね。また、主観ショットを軸に構成されたカッティングの早い、どこか身も蓋もなく見えるカット割を大いに楽しんでいた。そんな中、画面に異変を感じたのは、セリーヌが例の屋敷に赴く場面で、まるでセリーヌの回想のように「(パンで捉えられる)人形」や「金魚鉢にささったヒナギク」がインサートされるのだが、それは以前ジュリーの主観として撮られたショットのはず(記憶違い?見覚えがあるのは確か)。ここで感じた違和感が次第に膨らみ、実際、セリーヌとジュリーは、二人で一役(アンジェル)を演じることになるのだから、既にこの時点で予告されていたということか。このような断片的なカットが繰り返しインサートされ、それらが次第に繋がり、意味を持ち出す、といえば思い起こすはアラン・レネ『ジュテーム、ジュテーム』である。これでも「絶妙な既視感」を巧みに演出していたが、本作も負けていない。だけど、これまでつらつら書いたことは、『セリーヌとジュリーは舟で行く』の魅力の半分に過ぎない。もう半分は、フィクションの世界に現実から働きかける、というアイデアと、その際に見てしまう屍のような登場人物たちの姿である。セリーヌとジュリーは、血のつながりに縛られる少女を助け出そうとフィクションの世界に潜入する。はじめは鮮明に見えていたはずのその世界なのだが、いざ二人で突入してみるとどうやら様子がおかしく、館に住む全員、顔色が非常に悪い。そして当然フィクションの世界の住人なので、台詞にない言葉をかけても、何ら反応は得られない。彼らを解放するには、「飴」が必要で、それだけが屍と化して永遠に同じ芝居をし続けなければいけない登場人物を救い出すことが出来る。最初の見方に戻れば、ここでも再び芝居は二重化されている。こちらはマニエリスム的だ。既存のもの同士の、それも人工物の掛け合わせで立ち上がる生気のない世界。舟で逃げ出す少女とセリーヌとジュリーが、思わず出くわしてしまう屍のような彼らには、何かこの世ならざる不気味さがある。それは怪物を見た、というよりは、解像度の違う何かが現実に侵入してきている、みたいな。二次元だと思っていた作りものが突如のっぺりした性格はそのままに三次元の世界にやってきてしまった、みたいな。お伽噺の世界をこのように映像化したリヴェットは、たいへん優れた感性を持っていたに違いない。明らかに「バックステージ」を映してしまうその鮮烈さにも、撃たれた。ふと「バックステージ」なんて口走ってしまったが、徹頭徹尾「俳優論」の映画である。それが『不思議の国のアリス』の世界観で展開される、という奇異な所が、本作最大の魅力。

a2.

傑作。ゲルト・フレーベの出演が嬉しい。フランジュはヨーロッパの犯罪映画史に自覚的なのだ。ところでテンプル騎士団のテーマが非常に格好いい!女怪盗の甘いテーマも泣かせる。フランジュ自ら音楽を手がけている。脚本家のジャック・シャンプル-は重要人物ですね。覚えておこう。

カステロフィリア

b1. 『ピラネージ』(スザンナ・クラーク)

 

梅雨入りしましたね。濡れるのは嫌だけど、日中でものっぺりと明るいのは過ごしやすいです。ちょうど湿度の高い小説を読んでいて、思いがけず現実とフィクションが通じる。

 

 

b1.

幻想文学の価値とは、固定された考え方、つまり現実に軸足を置いたファンタジー観を突き崩す所にある。後段になって、ピラネージ(=マシュー)とラファエルが広間群について会話する際、ラファエルが「ここでは表現としての川は山”しか”見ることが出来ない」と言うとき、その“しか”という言葉にピラネージは敏感に反応する。“しか”には優劣があるじゃないか、と。決して現実の山や川の方が優れていて、異世界の山や川が劣っているなんてことはないのだ。道行く人とすれ違う際、彼は、広間群に立ち並ぶ像と同じ顔と出くわして驚く。異世界は、彼の生活に豊かさをもたらしている。本作では「記憶」が重要なモチーフであり、「もうひとり」に記憶喪失を指摘された辺りで、作品世界に亀裂が入る。思えば、時間・空間に至るまで全てが相対的な表記しかなされていないし、「もうひとり」という呼び方も、あくまで相対的なものだ。細部の描写が鋭く、ピラネージは常日頃日記を付けているのだが、自分が書いた記憶のない日記が出てきたり、また膨大な量となった日記には索引も付けており、そこにまるで知らない=覚えていない人物についての索引がずらっと並ぶ。恐ろしい。こういったブツとして提示されると思わずドキリとしてしまう。もう1点、魅力的な細部は、日記に記載されている第六章で、キッタリーの儀式に参加するマシューが、久しく儀式をやっていなかったと言うキッタリーを訝しんでみる場面で、机の上に立てられた蝋燭の足元を見ると、そこには繰り返し動かした形跡が確認される。キッタリーは懲りずに今でも儀式を続けていたのである。不信感が募るが、すでに儀式はスタートしてしまっている。この場面もドキリとした。ピラネージとはあくまでも「もうひとり」から与えられた名で、由来は実在の建築家である。彼は18世紀のイタリアでローマの古代遺跡を細密に描いたことで知られる。あくまでわたしの感覚では、建築は、生身を見るよりも、その表現を見る方が正しく魅力を感じる。表紙画は、モンス・デジデリオ『冥界の風景』で、なんたる偶然か、塚本邦雄の新著『紺青の別れ』の表紙も同一の絵画である。こちらでも男が狂気の世界へと誘われるそうで、即購入。また日本におけるピラネージ研究として忘れてはいけない高山宏氏の『カステロフィリア』、こちらも高値だが、即購入。メアリー・カラザ-ス『記憶術と書物』、こちらも理性以前の思考、理性前の記憶を探れそうで気になる。購入。関連でイエイツ『記憶術』。購入購入~。てかイエイツて、『薔薇十字の覚醒』の人やんか。これはあついで~。

なんと牧歌的か

a1. 『ジュデックス』(ジョルジュ・フランジュ

a2. 『カモン、カモン』(マイク・ミルズ

a3. 『ニューオーダー』(ミシェル・フランコ

 

a1.

傑作。文句なし。

a2.

映画で見ていて、くどい、と思わされる描写の処理の仕方が鮮やか。たとえば近年ではメールだったりスマホで電話の描写だったりがどうもくどく見えるのだが(はじめてそのことを意識したのはセラ『ロストバケーション』だった)、文面や声が別の場面に重なるよう、巧みに編集がなされている。ちなみに黒沢清『旅の終わり、世界の始まり』では前田敦子がメールの文面を口に出す、というやり方で処理をしていた。数々の映像がゆるやかにつながっていく、それは見ていて心地良いし、何か分かった気にさせる力があるのだけど、面白いとは別。と、これまでこういった類いには否定的でしたが、今作に限っては悪くないかなと。ウディ・ノーマンが可愛いから。

a3.

もはや誰も得をしていない。おそらくは計画的ではない、暴徒の波が押し寄せる中、護衛が思わず客に向かって発砲してしまう場面の強度はすさまじい。イデオロギーではなく、今や社会を動かすのは突発的に湧き上がる「感情」なのである。また映画の冒頭が「暴動」と「病院」である点も見過ごせない。『食人大統領アミン』の系譜に連なる病院描写。金のない貧者は移管されるため、さらなる金が必要となる。元・従業員の男が金を無心しに来る場面は、異物が屋敷にやって来た感覚。偶然にも『ジュデックス』に類似の場面があるが、そちらでは男はあくまでも金は受け取らず、生き別れた息子を求めている。なんと牧歌的か。期せずして、対照的だ。彩度の高い画面が印象に強く残るが、特権的な色である緑は、決して豊かな色に映らない。補色であるマリアンが着ている赤い服も。ラスト、家政婦含む3名が絞首刑に処され、垂直に伸びる首吊り縄が三本、画面を丁度四等分するように映るのだが、なぜだかそれを見て国旗を連想してしまう。まさしく新秩序たる絶望的なラストカット。

デカい画面!

a1. 『トップガン:マーヴェリック』(ジョセフ・コシンスキー

a2. 『壁にぶつかる頭』(ジョルジュ・フランジュ

 

 

a1.

今回はIMAXエキスポシティまで見に行く。いやあ~最高でしたね。座っていた席番号がF-16とニアミスなのも嬉しい。コシンスキー監督は、一時期のブライアン・シンガーのキャリアと重なるところがあるというか。『ユージュアルサスペクツ』(こちら脚本はマッカリー)に『ゴールデンボーイ』と、やりたいことは非常に良く分かるけどつまらない映画を撮っていたシンガーは、2000年『X-MEN』で才能が開花しましたね。言葉の正しき意味で通俗娯楽たり得ている素晴らしい映画。それ以降ヒーロー映画ばかり任されるシンガーは、2008年には『ワルキューレ』(これもマッカリー脚本&トム・クルーズ主演)というこれまた中途半端な映画を撮っていますが、これは再びナチスもので、シンガーにとっては商業/作家とを切り分けて考えているのでしょうが、彼の才能を活かせるフィールドは間違いなく通俗娯楽の方。コシンスキーも『オブリビオン』・『トロン/レガシー』という作家的で中途半端な映画を手がけた挙げ句、『オンリー・ザ・ブレイブ』で何かを見つけ出した。ただ、あまりに仕事を選ばないでいるとシンガーみたく疲れてしまうと思うので、無理はしないように。

戦闘機に付けられたIMAXカメラなど、撮影技法が取り沙汰されることの多い本作ですが、意外にも、肝心の戦闘機が飛び回る映像の使用は抑制され、メインは役者の顔・顔・顔である。9G負荷がかかる急上昇の際も、脂肪にG負荷がかかった情けない顔と、意識が遠のいていく様子を表現したその目線カットで済ませてしまい、例えばコヨーテがGショックを受ける場面では、カメラが戦闘機の外に出るのは覚醒したコヨーテが地面すれすれから急上昇させるカットのみで、これは非常に効果的である。対して『トップガン』では、敵国の操縦士のヘルメットが早々に映ってしまったりと、顔を挿入するタイミングがイマイチ。そして戦闘機を見せすぎ。顔のつるべ打ちで最も驚かされるのはダガー1~4が一斉にSAMに射撃される場面で、混乱しそうなものだが、コシンスキーはそれぞれの顔と撒かれるフレアだけでつなぎ、最後の最後で四基とミサイルとフレアが入り乱れる凄まじい引き画一発。うーむ、良い。

クレジットではIn Memory Of TONY SCOTTと本作を捧げているが、トニースコットの良い所は、彼の作品はたとえ暴走する列車や地下鉄がハイジャックに遭ったりしても、全く真実味がない点。トニースコットは、カメラと被写体の間に余計な思念だったり社会性を盛り込まない。そういった意思を本作にも感じましたね。

a2.

これを超える癲癇描写てないのでは。精神病院から逃げ出す際、一緒に逃げていた男が突如癲癇の発作を起こす、そのタイミングが絶妙だ。身体中に力が入り強ばるので舌を噛み千切ったのか、口からは血が。印象的な癲癇と言えば近年では『オールド』だが、こちらはそれほどの見応えはなく、レストランで食事中にいきなり倒れる、ただのショック描写である。素晴らしかった、もう一つ、特に評価したいのはジャンピエールモッキ-が精神病院に収容されるまでの間の飛ばし方。