言うは易く行うは難し、暴力の痕跡

a1. 『オフィサー・アンド・スパイ』(ロマン・ポランスキー

a2. 『フランティック』(ロマン・ポランスキー

b1. 『マーベル映画究極批評』(てらさわホーク)

 

 

a1.、a2.

ポランスキーの作品の見所は「暴力」にある。その暴力は、例えば個人の怒りによるものではないし、たけし映画のような「空虚」と呼ばれるものでもないし、ミヒャエル・ハネケのように暴力とそれを引き起こす社会構造とを並列して語る類いのものでもない。ポランスキーの暴力は、力点がその暴力の「痕跡」に置かれている。どこか黒沢清『CURE』のX印を思わせる。両者共に、ノワールの資質がある作家なのだろう。『オフィサー・アンド・スパイ』では、書類を偽造したことをゲロったアンリ中佐が何者かによって口封じのために暗殺され、翌朝その死体を目撃する場面があるのだが、中佐の身体の上を伝う血の跡がどうしてあそこまで不気味に映るのか。そして決闘で受けた左腕の傷跡もしっかりと確認できるように撮られていた。『チャイナタウン』と並び、忘れがたい死体である。それから『オフィサー・アンド・スパイ』で特筆すべき点として、もう三つ。一つは弁護士が射殺される場面にて、『北北西に進路をとれ』でヒッチコックが試みていたような演出に手を出しており、見事な成功を収めている。そこからチェイスが始まるのだが、ここはやけにあっさりと犯人の姿を見失ってしまう。この、全体像を掴もうとするやいなや霧散してしまう感覚は、全編に亘って貫かれる。反ユダヤ主義のとらえどこのなさ。あくまで、「まだ」か。二つ目は、れっきとした法廷映画であること。やっぱり法廷は面白いなあ。画面が締まる。そして「指差し」が強調されていた。極端にパースが歪んだ画がポンと入ってくるのも本作の特徴か。あ、そういえばフランス領ギアナ・悪魔島に島流しにされたドレフュスがいよいよ法廷に被告人として再度召喚される際、ポン引きをしていた。しかも記憶の限りでは、5度も引いている。軽快な編集で見せてくれるのも本作の特徴であり、件のゾラ、J'accuse!場面で、軍部の高官が次々と告発されていくシークエンスはデスプラの音楽も相俟って否応なく盛り上がる。ああいう豪快な編集もこなしてしまうポランスキー。三つ目は(先に言ってしまったが)音楽のデスプラ!大好き。今回も良かったねえ~。不満な点も一つ。主人公のピカール大佐のキャラクター設定は余りにも温すぎやしないか。「史実」という映画製作の名目を笠に着て手を抜いているように思える。ドレフュスとまるきり同じ筆跡を見ることにより動き出すのだが、陰謀の発露が「字」だなんて、どうも印象が薄い。また公衆の面前で屈辱を受けたドレフュスを思い、涙を流すくらいの純朴な軍人、くらいに設定しても良かった気はする。ただ、ユダヤ人が嫌い、という設定は残したままで。

フランティック』は、エマニュエル・セニエが屋根から滑り落ちそうになる場面と、割れたバックウィンドウから走る車の中に乗り込む場面が、ジブリ映画に似たエロティックさを感じ、特に良い。またもやハリソン・フォードに猿芝居をさせる場面がある。『オフィサー・アンド・スパイ』に続き、こちらも「冤罪」が題材となっている。終盤、セーヌ川にある自由の女神像のお膝元での一悶着も、とても見応えがあり。死に瀕したセニエがフォードのポケットにこっそりと発信器を忍ばせる所をミステリアスに演出している割には、すぐにポケットの膨らみに気付いたフォードが川に投げ捨ててしまう。この、妙に引き延ばさず、やけにあっさりと事態が終結してしまう辺りはポランスキーの特長の一つか。そしてやっぱりこわい「死体」は登場。犯罪は、痕跡として示される。ただ今作では犯罪を行う組織の匿名性が低いため、終いには陳腐な印象が残る。

b1.

MCUについてまとめた文章はもっと読みたい。著者が繰り返し強調しているように、昨今の作品など、特に漫画らしさ全開である。映画の中にアメコミそのものが持つ馬鹿馬鹿しさが入り込んできている。ハッキリと「異様な作品群だ」と喝破している辺りは共感できるが、9・11がどうの、戦争がどうの言い始めると、途端に読み応えのない議論に。また、執筆当時と現在とではMCUの状況も大きく変わってきており、たった二年とはいえ、今読んでも響く書物ではなく、あくまでも過去の書物という印象。過去作を見直す際に、手元に置いておきたい一冊ではあるが、もっと狂った評論を読みたい。

ナナメナメナメ

a1. 『顔のない眼』(ジョルジュ・フランジュ

a2. 『ミスター・サルドニクス』(ウィリアム・キャッスル

b1. 『地獄の門』(モーリス・ルヴェル

 

 

アスタ・ニールセンの写真を見て、横に四つ並んだ胸元のほくろが大変セクシーでよろしい、とか思っていたら、それは写真の経年劣化のせいで入った疵であった。私の頭の中で完結していることとはいえ、少々恥ずかしい(ちなみにアスタ、ではなく長年アニタと勘違いもしていた)。そんなニールセンのことが最近気になってしょうがないので、ここに彼女の俳優人生についてのいくつかの事柄を残しておく。

・ニールセンは1899年、劇作家のピーター・イェレンドルフに舞台女優としての才能を見出される。イェレンドルフがニールセンに注目したのは、彼女の美しいテノール・ヴォイス故だった。しかし舞台女優としては、大した成功を収めることはなかった。魅力的な声をもつ者にとって、サイレント映画製作とはなんたるジレンマであろうか。おそらくこれは19世紀末に生を享け、俳優を志した者にとっては普遍的な悩みの種であったろう。『雨に唄えば』でパロディ化されているくらいだ。しかしニールセンはそこから、明確に映画的な芝居、つまり特徴的な「ナナメの芝居」を志した。この「ナナメ」が非常にエロティックなのだ。同年代のドイツでエロティックな女優と言えば、似た名前をもつアニタ・バーバーがいるが、アニタとは違い、ニールセンには秘められたエロスを感じる。ニールセンの唯一のトーキー映画は『Impossible Love』(32)であり、本作は「中年女性と老年の彫刻家の恋愛」という原作の持つ設定を大胆に翻案し、老年の彫刻家を「ヒステリックな妻を持つ既婚者の若い男」に置き換えている。悲劇的な結末しか想像しようがない。どうやらニールセン自身、内容に口を出していたそうだ。彼女は多くのハリウッド女優がスタジオの意向に左右されていたのとは違い、彼女自身の公的なイメージ、それに映画の内容に、密接に関わることが出来たのだ。

・上で「秘められている」ことを指摘したが、それ故の『女ハムレット』の起用だったろうことは想像が付く。女らしさを隠さねばならないのだから。思えば『チタン』にはエロティックさは皆無であった。あの映画、あの女優には、奥ゆかしさがないのである。

・『女ハムレット』のポスター。ニールセンが自身の男性器を切り取って掲げているようにも見えなくもない。時代の影響は色濃いが(つまり戦後ドイツの表現主義的な画作り)、彼女の輝きだけは現在進行形として迫ってくる、稀有な映画。彼女自身の製作会社Art-Film GmbHによる映画。芸術性だけではなく、彼女の商業的な勘の鋭さ・虚仮威し(ハムレットは、実は、女だった!)も同時に指摘しておきたい。

 

              

 

 

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a1.、a2.

傑作「マスク映画」二本立て。この二作に連なるは、『アリス・スウィート・アリス』か。共通点として(というかキャッスルは絶対に見てると思うけど)、顔が潰れた人は顔を枕に突っ伏して眠る。この時、手の置き所が難しいから、遊ばせているのが妙に不気味。異なる点としては、『顔のない眼』は手術台といい墓場といいモルグといい「横になる」ことを徹底しているのに対し、『ミスター・サルドニクス』は拷問椅子に「座らせる」。この徹底ぶりは大きな違いだが、ハッチャけぶりでは圧倒的にサルドニクスの勝利。冒頭にキャッスル本人が登場するのがかわいくて最高で、発音が聞き取りやすいのも嬉しい。どちらもヤバい、不気味な雰囲気が立ちこめている。

デルトロはもう少し頑張ればフランジュみたいになれそう。デルトロは雰囲気がお伽噺ぽいだけであり、フランジュはお伽噺そのもので、ゆえに残酷たり得ている。

b1.

『誰が呼んでいる?』が圧倒的にすごい。舞台立ても話の筋もかなり古風な仕上がりだが、終盤地下室に入った瞬間に時空がねじ曲がり、突如「ガルヴァーニ電気」なんていうワードも飛び出すトンデモ作品。超常現象のせいで気が狂う物語が大好きなのだ。実はそれは超常でもなんでもなくて、科学的に説明できる事象である、とタネを明かす方が残酷で、より好みだ。収録作品の中では特に長い作品だったので、より強く印象に残ったのもあるか。次点は『雄鶏は鳴いた』『悪しき導き』『太陽』『伴侶』。これらもたいへん素晴らしい。ルヴェルは頻出するモチーフがあり、特に「鏡」「めくら」「醜悪な顔」「金欠」はよく出てくる。その中で『太陽』は少し異質で、「鏡」は出てくるのだが、恐怖を惹起する装置ではなく、囚人は鏡に映る手のひら一杯の太陽だけが生き甲斐。映画で言うなら『脱獄広島殺人囚』みたいな、グッと胸に迫る物語だった。

世を憂う術すら知らない

a1. 『キラー・ジョー』(ウィリアム・フリードキン

a2. 『ガーディアン/森は泣いている』(ウィリアム・フリードキン

a3. 『ジェイド』(ウィリアム・フリードキン

a4. 『ハンテッド』(ウィリアム・フリードキン

 

 

 

本日はフリードキンの作品をまとめて見る。数年前『恐怖の報酬』について色々と考えた際に一気見しているのだが、『ハンテッド』だけは初見。フリードキンはそのどれも同じスタッフを二度以上使うことがほとんどなく、作家的な監督ではない。一作品毎に映像のタッチがことごとく異なる。通して見てみると、異様な編集と脈絡のない突飛な描写が目に付く。今日見た4本以外でも、『クルージング』での取調室に闖入してくる巨漢が物語に僅かも寄与しないことには衝撃を受けた。『エクソシスト』は特殊メイクの点からも語られることが多い作品であるが、おそらくフリードキン自身は「ワンカットの中で外見が変化してゆく」ことには興味がなく(当然技術的な制約もあるが)、当作品で印象的なつなぎは、カットが移り変わるとまるで別人のように「変わってしまっている」点にあり(80年代に入り、クローネンバーグ作品を筆頭にワンカット内で変容する肉体を映し出すことが出来るまでに技術が進歩してからは、90年『ガーディアン』に至るまで恐怖映画を監督していない)、フリードキン映画の作劇もここに集約される。『キラー・ジョー』での殺人依頼しかり、事態は既に起こってしまったこととして提示する作劇を好んでいる。起こってしまったが故に、登場人物達はその火消しに駆り立てられるのだ。まるで映画の方からカメラの人間たちを追い立てているかのような感覚ゆえに、時にフリードキンは「鬼畜監督」などと言われたりする。また実景を、単なる情報提示としてではなく、世界観を作りあげるものとしてかなり重要視しているであろうことも伺える。同様のことは、オープニングクレジットについても言えるだろう。また「悪夢にうなされなければ主人公たり得ない」とでも考えているのかと、必ずと言っていいほど、フラッシュバックのシーンがある。またフリードキンの映画はよく「リアルだ」と言われるが、殊に犯罪映画に限って言うなら、多くの場合主人公を警察に設定することで、「警察どこ行ったんだ問題」をクリアしている。リアル、と言えばその点でしょうか。

 

 

a1.

ロケ地の選定が秀逸である。トレーラーハウス、ストリップ・クラブ(女の裸を見ながら保険金殺人の話をする馬鹿がどこにいる?)、クラブ前の寂れた都市の雰囲気、廃業した遊園地、鄙びたダイナー、ピザ屋の地下室、今は使われていない線路など。どこもかしこもアメリカ映画的なロケ地選定でありながら、そのどれもが寂れ/鄙びている(またロケ地に限らず、執拗に映される「皿の中身」もアメリカ的で、キャセロールにピザ、マッシュポテト、そしてフライドチキンだ)。後景に映る都市には「傷跡」が残されているのだ。その傷を「受け継ぐ」かのように、犯罪者は傷を負い(傷を負い、汚い身なりになるまで落ちぶれて始めて風景に/映画に馴染む)、そしてまた次の世代へと傷跡は継承される。ただそういう風に事態を俯瞰的に見れる登場人物などこの作品世界には存在せず、世を憂う術すら知らない。それは、登場の際にはどこか超越者のような風体をしたマシュー・マコノヒーも例外ではなく、キズモノの赤ん坊が生まれることに心の底から喜んでしまっている。傑作としか言いようのない、素晴らしい映画だ。一点だけ残念な所を。母親をのせた車を爆破する場面で、オイルに火を付け、ジョー達が乗った車が走り出してから爆発するまでをワンカットで収めたかったのだろうが(その痕跡は見て取れる)、実現できてはいない(それはそれで良いところもある。エミール・ハーシュの顔から切り返した時には「すでに」車は火に包まれている)。フライシャー『ラスト・ラン』のような車爆破を何としても実現させて欲しかった。

a2.

ジョンアロンゾは数少ないフリードキン組のメンバー(と言ってもいいのかな?)。アロンゾについて語る動画も出てきたし、親交があったのでしょう。彼は『Mayhem on a sunday afternoon』というTV映画の撮影第二部隊として参加しており、監督がフリードキン。後に『チャイナタウン』を撮っており、それを踏まえると本作での起用も頷ける。特にチャイナを最も思い出すのは黒人のベビーシッターが自転車で通勤中に転倒し崖を転げ落ちて死んでしまう場面での、死んだ黒人の顔のアップには、件の「水門に挟まった死体の顔」をオーヴァーラップ。にしても、ここのつなぎが異様で、車輪が穴に嵌まってしまい転倒するカットが変わると、いきなりベビーシッターの顔は血まみれになっている。このつなぎは頻出する。普通の通りに面した普通の住宅に、恐ろしい部外者がやってくる恐怖を描いており、なぜだか昼にも関わらず夜みたいに見える。家の周りを取り囲む自然が「影」として屋内に投影され、まるで自然が侵食してくるかのような感覚を与える。森と人間とが融合したヴェルーシュカ『変容』のようなビジュアルをしたベビーシッターと赤ん坊を取り合う様は面白く、ベビーシッターが扉を拳で叩き割る際に「ばいん!ばいん!」とヘンテコな効果音を付けている。またアッパーな恐怖映画には欠かせない存在である殺され役を三人配しており、彼らが大木にシバかれ、根っこに串刺しにされて、狼には四肢を噛み千切られ、最後には自然発火する様は圧巻だ。その内の一人がアホみたいにデカいナイフを持っているのだが、「リアルな」恐怖を謳った作品にしては笑わせる小道具だ。一体何を考えてこんな小道具を?

a3.

チャイナタウンで展開される派手なカーチェイス、最後は埠頭で、黒のサンダーボルトに乗った犯人が逃走することで決着が付く。面白いのだが、ここがどうもフリードキンらしくない。第一、人が全然走らない。エスターハースの脚本が、率直に言ってあまり面白くない、という問題が大きい。自身がジェイドであることを取り調べでは涙ながらに否定しておきながら、その後得意顔で肯定する辺りは面白いが(しかも自ら語り出す)、彼女を精神科医という設定にした点は、何というか、非常に気色が悪い。また主人公のデヴィッド・カルーソーは、見ていてワクワクしない俳優だ。この役はジェームズ・ウッドとかで見たかった。唯一良かったのはホルト・マッキャラニーでしょうか。『ナイトメア・アリー』と似たような立ち位置の彼は、登場は少ないながらも抜群の存在感。カルーソーが美容室から逃げ出した娼婦を追う場面、追う彼目線のショットがあるのだが、このショットは『ラストナイト・イン・ソーホー』に引き継がれている。

a4.

トミーが始まりから終わりまで戦闘用の服ではなくヨレヨレの私服(しかも森の中で目立つ)を着ているのが新鮮。対してベニチオは顔に迷彩を塗ってレザーのジャケットを着ており、衣装からも man hunt が投げかける心の闇が伝わってくるが、唯一家族に会いに行く場面で普通のコートを羽織っていたのには違和感を感じた。その場面から、途轍もなく引き延ばされた圧巻のチェイスが始まる。このチェイスは、本作における「狩り」の肝でもある「痕跡」が鍵となる。痕跡を追えない者は、たとえ拳銃を持っていようとベニチオを捕獲することなど不可能であり、本作のFBIは徹底してその嗅覚を欠いた無能である。ラストの師弟対決は、至るべくして至った対決で、そこでの格闘アクションにはアイデアがふんだんに盛り込まれているわけではなく、一つの場を設定し(滝が流れるすぐ横の狭い岩場)細かいナイフ格闘術をカメラで捉えることに執心する。ここの格闘では重みが感じられ、私としてはかなり好きなタイプの格闘だ。第一、面白くならない訳がない舞台立てであり(『脱出』や『アポカリプト』など)森×滝映画には滅法弱い。わざわざ河を横切らせたり、泳がせたり、落下させたりと、ただでさえ過酷な環境でさらに過酷なアクションを俳優に強いるフリードキン映画のチェイスは、何だか「追いつくことが予想される」チェイスであり、「追いつくか逃げ切るか」のハラハラドキドキに主眼を置いておらず、俳優のからだを酷使することを重視している。ただ「人が走る様は見ていて面白い」のだ。フリードキン映画では、逃げ手と、その存在に気付いていない追っ手とが壁一枚挟んで同じ画面に収まるカットが頻出するが、こういうカットには「チェイスにおける顔の重要性」について考えさせるものがある。最低限のカットは抑えていると言える。また、つなぎで、動物(飛び立つ鳥とか)を用いるのだが、これにより編集のリズムが出ている。特異な編集として一点だけ。例のチェイスで、公園に設えられた小さな滝の向こう側にベニチオを幻視してしまう場面で、またもやサブリミナル手法を用いている。真っ暗闇の滝の向こう側にカメラがすーっとズームしてゆく空のショットが印象的であった。

ヘラルド(先触れ)

a1. 『トップガン:マーヴェリック』(ジョセフ・コシンスキー

a2. 『悪魔の往く街』(エドマンド・グールディング)

b1. 『シルバーサーファー:ブラック』(ドニー・ケイツ/トラッド・ムーア)

 

 

a1.

これは傑作でしょう。コシンスキーの映画だとこうなってしまうのだが、またしても、褒めようとしても言葉が出ない現象が。まず素晴らしいと思うのは、マーヴェリックの立ち位置でしょうか。前作『トップガン』では若かったこともあって無茶をする、扱いが厄介な青年というイメージしかなかった彼が教官を務めることで、鼻に付く感じが皆無。やっぱり組織ですから、その規律を乱して無茶をするマーヴェリックを手放しで賞賛することは出来ないわけです。しかし今作で無茶苦茶なことを言っているのは明らかに上官であるジョンハムでして、それに刃向かって自身の計画の正しさを証明するのは至極真っ当で応援したくなる。実際それでチームは再びまとまるわけです。トムクルーズが持つ危うい雰囲気とチームの規律を両立させる上で、前作は上手く出来ているとは思いませんが(あくまでもトムをヒーローとするならば。一番株を上げたのはアイスマンでしょう)、今作ではそれが見事マッチしている点がすごい。トムクルーズを活かすことがよく考えられた脚本だと思います。そういうキャラクターの配置とバランスが非常に上手くいっている。最後に見事「ならず者国家」部隊を撃墜し、空母に帰って来たマーヴェリックとハングマンを迎えるメンバー達。皆に囲まれる中、握手をするのはもちろんトムとマイルズテラーなのですが、その前にマイルズとハングマンも握手を交わす。ハングマンはよくいる「厄介者」といった類型的なキャラクターの印象で終わってしまいそうなものでしたが、そうはならない辺りがコシンスキーの腕だなあと。『オンリー・ザ・ブレイブ』における、一見類型的な登場人物達の魅力を引き出して「キャラクター」に仕立て上げる手腕を買われての今回の起用だと思いますが、ブラッカイマーはよく見ていますね、素晴らしい選球眼。思わず涙をこぼしてしまったのは、母船から発艦するトムが旗振り?に対してハンドサインで「GO」を送るのですが、そのサインへの旗振りのリアクションが映されない所。あそこは第四の壁を越える、と言えば大げさですが、観客への目配せというか、コールでしたね。そこで感極まって涙が。ああ、もう一回見たい。『オンリー~』に引き続き、ジェニファーコネリーも超良かった。あの人が出てると映画が締まるんだよなあ。それに撮影も素晴らしいです。クラウディオミランダはコシンスキー組の人ですが、人物の表情を中心に据え、しっかりと正面から撮る。傑作や~。

a2.

大好き!

b1.

よく分からないが凄いものを見たという気にはさせてくれる辺り、非常にマーベルコミックぽい。シルヴァーサーファーは僕もお気に入りのキャラクターの一人。Dr.マンハッタンの過去/現在/未来が同時に進行しているという設定を汲んだような、独特な円環構造を持っている所が面白い。宇宙における光と闇のバランスを保つためには、光担当のサーファーだけでは不釣り合いだ、という指摘は意外にもこれまで考えてこなかったため、とても魅力的なアイデアに思える。マーベル世界における傍観者(ウアトウとか)は、すぐに事件に介入してしまう所に可愛げがあって好きなのだが、本著におけるシルヴァーサーファーの傍観者としての在り方は見事なのではないでしょうか。

怒ってる?笑ってる?

a1. 『乱気流/タービュランス』(ロバート・バトラー

a2. 『オビ=ワン・ケノービ』ep.1-2

 

 

a1.

レイ・リオッタがお亡くなりに。『グッドフェローズ』でお馴染みのリオッタですが、デビュー作の『サムシングワイルド』も良いし、スタローンと共演した『コップランド』の彼だって最高だった。そんな中で選んだのが『乱気流/タービュランス』。本作でも、リオッタ特有の笑ってんだか怒ってんだか判別不能な芝居が炸裂する。観客はそんなリオッタの表情や動きをゲラゲラ笑って、時には恐れつつ楽しめば良いのだが、最も大変なのは彼の芝居にリアクションをする相手方。連続殺人鬼である彼につきまとわれるのはキャビンアテンダントのローレン・ホーリーホーリーは本作でゴールデンラズベリー賞最低女優賞とやらを受賞しているが、気にすることはない。とんでもないハイテンションな芝居をする相手を前にして、自身の演技プランを全うできる役者がどこにいようか(第一、賞自体が最低だ)。私は本作のホーリーが大好き。最後に搭乗口の上でガッツポーズでもすれば尚良かったのに、と思うくらいにはノれた。この映画、面白いのが、リオッタのテンションに応じて天候が変化してゆく点で、リオッタがブチ切れれば天候は悪化して乱気流に呑まれ、リオッタが死んでフラットラインを迎えると天候は穏やかに(ただ遠くの方でバリバリと雷は鳴っていたが)。天候を自由自在に操る男リオッタ。登場場面は少ないものの、しっかりと印象を残すレイチェル・ティコタンはさすがだなあ。遠隔指示を出す機長役のベン・クロスも安心できるキャラクターを全うしており、良かった。この俳優は覚えておこう。「飛行機墜落モノ」(しないけど)として見て、ラスヴェガスの立体駐車場を突き破る飛行機の前輪にフォード車?だかが嵌まり込んでしまい、それにより着陸が上手くいかない、という展開は異様で面白い。そして何と軍用機が出動し、飛行機を誘導するのかと思いきや、前輪を銃撃し、車を撃ち落とすという展開まで付く。そして必須の落雷描写は、もはややり過ぎなくらいでお腹いっぱい。操縦席で必死に操作するホーリーをガラス越しに捉えたショットに、稲妻がチラリと映り込むのも見せ方が上手い。すごい勢いで雲を抜けて地上が見えてくる、といったカットも抑えており、隙がないです。

a2.

尋問官の仲間割れが始まったときにはどうしようかと。リーヴァはちょっとフィンを思わせる「シス(ファーストオーダー)の尋問官(トルーパー)だけど実は良い人」キャラなのかと思いましたが、第二話で単なるアナキン狂信者だと分かり一安心。今後に期待が高まる。『ボバ・フェット』ではディン・ジャリン回以外はタトゥイーンから一歩も外に出なかったボバ。本作もオビワンがルークを遠くから観察するだけの、またしてもタトゥイーン内部だけで完結する物語なのかと思いきや早々に脱出する辺りも良いと思いました。かといって無闇にキャラクターを増やすわけではないので(『ボバ』はキャラとクリフハンガーが多すぎた)MCU的なファンサービスはないシリーズなのかも知れない。敵は明確(シス!尋問官!アナキン…)だしキャラクターの動機は単純(ジェダイコードを思い出すオビワンに、生き残りを狩りたい尋問官の対立)それでいて第二話の惑星ダイユーはプリクエル的な色使いに住民は旧三部作の質感、という点でバランスが良く、是非とも目配せなしでこのままで進めて欲しい。ルークにお土産を買っていくオビワンが、渡したおもちゃは、T-16スカイホッパーというらしく、エピソード4で「ウォンプラットを撃った」「訓練は積んできた」というまさにアレ。こういう些細なものは嬉しい。また宇宙チンピラの一人はレッチリのベースだったらしい。それから道で乞食をしていたクローン兵(ティムエラモリソン)。これは今後バッドバッチが出てくる予兆なのだろうか?次回は仲間の元へと向かうそうで、おそらくそこにアソーカやグローグー(ということはオビワンがタトゥイーンに連れて行く?それを追ってアナキンが来たりするのか…?)、生き残りのジェダイ、洗脳を免れ得たクローン達がいるのだろう。合計6話しかないようだから、途中でダレてる暇はなさそうだ。期待が高まる。

悪魔を憐れむ詩

a1. 『ワンダビジョン』ep.4-9

a2. 『オンリー・ザ・ブレイブ』(ジョセフ・コシンスキー

 

 

MCUにおける「赤」にはどういった意味があるのか。「赤」から何を読み取れば良いのかが分からない。アイアンマンは赤色で、性格に難はあるが一応ヒーローである。しかしウルトロンの赤い眼にはそこにヴィランを読み取れ、という。ワンダの赤い光線?はあくまでもヒーローで、スカーレットウィッチの赤い魔術はヴィラン。じゃあアガサの紫とスカーレットの赤とが衝突した時には?「赤」はヒーロー/ヴィランどっちにも転ぶ色として扱われているのか。現段階では「紫」が不吉な色であることは間違いないようだ。フェーズ4のヴィランは一体何色なんだろう?ギャラクタスも紫っぽい。ちなみに脚本執筆作業は2021年2月に既にスタートしているようです。

 

 

a1.

ぐいぐい面白くなって来た。『光る眼』的な不気味さがたまらなく良い。外界に向けては、昨日指摘した「放送事故」的な演出がなされているようで、芸が細かい。また設定として優れているのは、ウェストビューの住民はカメラが回っている間の記憶がないというもの。ワンダの現実改変能力によって洗脳されているからだが、これは恐ろしい設定だ。シットコムオマージュも、例えば『ドミノ』は年をとったシットコム俳優が酷い目に遭う話だったが、やはりそこに時間が澱んでいる感覚に耽溺したいという欲望があるのだろう。「生きた時間」が流れていなくて、「永遠」に放送されていてもおかしくはない。さらにそれをどこかへ向けて放送している、という病んだ仕組みも持つ。タイトルだけ見てギョッとしたのだが、ep.7のタイトルは「第四の壁」だそうで、素晴らしいです!製作陣は「映画」というものの病んだ側面に自覚的で、それすらも劇に取り込もうとしている。今の感覚から言えば、そうして始めて「映画」たり得る、というかそれがなければ「映画らしい」だけで、それは「映画」とは非なるものだ。好感しかない。クイックシルバー登場には驚きはなかった。

ep.7以降、一気に駄目になったな…。

 

a2.

ジェフ・ニコルズと並んで語りたくなるような監督。ド派手な山火事、こちらの想像を遥かに超えるスピードで火が迫ってくる。『オブリビオン』とか『トロン』を撮ってる人がこんな映画を撮るとは驚き。マイルズ・テラーのことを好きになった。やたらと匂いについての言及が多いのは何なんだろうか?近未来SFてたしかに匂いを感じないし、その反動でこうなった?「うわあ、これが最後の別れなのか」と観客に思わせるのが上手い。てっきりOnlt the Braveて最後の言葉からとられたのかと思っていたが、どうやら違うみたい。

散歩は明治に始まったらしい

a1. 『死刑に至る病』(白石和彌

a2. 『麻雀放浪記』(白石和彌

a3. 『弾丸ラナリスク』(竹原潤太)

a4. 『ワンダビジョン』ep.1-3

c1. 『Freak Out!』(The Mothers of Invasion)

 

 

a1.

MOVIX京都はほぼ満席。予告の段階で明らかになっている「立件された9件の殺人の内1件だけは私の犯行ではない」という物語の筋から映画は逸れ始め、かなり荒唐無稽な話に接近する。その荒唐無稽さを、「今回の勝負所は面会室である」と強く心に刻んで撮影に臨んだであろう製作陣が、あの手この手で面会場面を盛り上げていくのには大変見応えがあった。スクリーンプロセスや、ガラスに映る阿部サダヲ/岡田健史両氏の顔が重なる(一瞬だけ岡田の顔の右半分が阿部に食い潰されてフランシス・ベーコンの画みたいになるのが凄かった!)、飄々とガラスをすり抜け直接触ってくる、岡田の胸に少女の姿が投影される、セット撮影を活かした自由なカメラワーク、などなどとても良かったが、最も驚いたのが初めての面会場面で、刑務官に抱えられて面会室を跡にする阿倍を見つめる岡田の表情に、去る阿部の姿がガラスに映る…と思いきや、よく見たらなんと岡田の側にいるではないか!まるで鏡のように。余りにも平然ととんでもないことをしている。素晴らしい!ここを超える場面は残念ながらなかったなあ。一つだけ、鈴木卓爾が良かった。元気そうで何より。阿部の造形について、彼は「言葉を介して」悪を伝播させていく。にしては魅力的なワードが乏しいのが最大の難点(脚本は『さがす』の人だそう)。物語を捻くり回すことに執心するのではなく(『さがす』もそう)、映画の雰囲気がガラッと変わってしまう一言を生み出せや(例.『マタンゴ』における「ここ、にっぽん…?」など)。映像について、『パラサイト』を意識し過ぎていて冷めてしまった。180度の規則を超えるのなら、ここぞというタイミングで、一発で決めるべし。さすがに回数打ち過ぎで、特に居酒屋の場面などはやり過ぎで見づらくなっている。岡田は大学生という設定だが、都合しか感じない設定なので本当にやめて欲しい。映画におけるキャラクターには「仕事」を与えるべし。「仕事」があるからこそ「距離」が生まれ、それがキャラクターの魅力になる。金田一耕助は事件に常に遅刻してきて最後に解説するだけの役割だが、あくまでも「探偵」であるからこそ面白いのだ。アレが素人、ましてや大学生だったことを想像してみたら…おそらく横溝も「仕事」からのギャップでキャラクターを創造していったのだろうし。ただ勝負所である面会室が非常に面白かったので、とても好きな作品でした。

a2.

あまりに退屈。見るに堪えないので右画面でyoutubeを再生しながら見たら、なんと驚き、カメラの質が違わない。スマホ撮影も見受けられる。良いカメラで撮られた映像(ただカメラがあれば良いというワケではなく、これにも技術が必要)を見たい、という欲望で映画を見ている側面はあるよなあと再確認。一点だけ、タイムスリップするときに「雷」が落ちる所は、やはり良かった。人智を越えた何かを引き起こすには、電気は必須なのである。

a3.

佐々木監督がtwitter上で褒めていたので見てみた。廃墟に行き着いた二人組の片割れが「ん?警察か?」といって辺りを見回すと空のショットがインサートされる。この瞬間に、虚実皮膜、幻想と現実が融け合う瞬間を見事現出させており見事。銃声が現実にひびを入れるのだ。

a4.

面白い。ただ『トゥルーマン・ショー』に熱狂した身(ましてや『恐怖』における死後の世界とやら)としては、もっと観客を信じて良い気がする。劇的な事件が起こる時、劇映画カメラに移り変わるのではなく、あたかも「放送事故」として見せることもできるはず。20年以上前の『トゥルーマン』でさえ観客はついて行けたのだから、チャレンジしろや(近年のMCUは、志の高さに対して実現レベルが低い)。エリザベス・オルセンが素敵。ep.3でのアスペクト比がスタンダードからシネスコに変わっていく所は奇を衒っているなあとか思いつつ、好き。こういうのに騙されやすいのだから、しょうがない。以上、続きが気になる。

 

c1.

大好き!