ナナメナメナメ

a1. 『顔のない眼』(ジョルジュ・フランジュ

a2. 『ミスター・サルドニクス』(ウィリアム・キャッスル

b1. 『地獄の門』(モーリス・ルヴェル

 

 

アスタ・ニールセンの写真を見て、横に四つ並んだ胸元のほくろが大変セクシーでよろしい、とか思っていたら、それは写真の経年劣化のせいで入った疵であった。私の頭の中で完結していることとはいえ、少々恥ずかしい(ちなみにアスタ、ではなく長年アニタと勘違いもしていた)。そんなニールセンのことが最近気になってしょうがないので、ここに彼女の俳優人生についてのいくつかの事柄を残しておく。

・ニールセンは1899年、劇作家のピーター・イェレンドルフに舞台女優としての才能を見出される。イェレンドルフがニールセンに注目したのは、彼女の美しいテノール・ヴォイス故だった。しかし舞台女優としては、大した成功を収めることはなかった。魅力的な声をもつ者にとって、サイレント映画製作とはなんたるジレンマであろうか。おそらくこれは19世紀末に生を享け、俳優を志した者にとっては普遍的な悩みの種であったろう。『雨に唄えば』でパロディ化されているくらいだ。しかしニールセンはそこから、明確に映画的な芝居、つまり特徴的な「ナナメの芝居」を志した。この「ナナメ」が非常にエロティックなのだ。同年代のドイツでエロティックな女優と言えば、似た名前をもつアニタ・バーバーがいるが、アニタとは違い、ニールセンには秘められたエロスを感じる。ニールセンの唯一のトーキー映画は『Impossible Love』(32)であり、本作は「中年女性と老年の彫刻家の恋愛」という原作の持つ設定を大胆に翻案し、老年の彫刻家を「ヒステリックな妻を持つ既婚者の若い男」に置き換えている。悲劇的な結末しか想像しようがない。どうやらニールセン自身、内容に口を出していたそうだ。彼女は多くのハリウッド女優がスタジオの意向に左右されていたのとは違い、彼女自身の公的なイメージ、それに映画の内容に、密接に関わることが出来たのだ。

・上で「秘められている」ことを指摘したが、それ故の『女ハムレット』の起用だったろうことは想像が付く。女らしさを隠さねばならないのだから。思えば『チタン』にはエロティックさは皆無であった。あの映画、あの女優には、奥ゆかしさがないのである。

・『女ハムレット』のポスター。ニールセンが自身の男性器を切り取って掲げているようにも見えなくもない。時代の影響は色濃いが(つまり戦後ドイツの表現主義的な画作り)、彼女の輝きだけは現在進行形として迫ってくる、稀有な映画。彼女自身の製作会社Art-Film GmbHによる映画。芸術性だけではなく、彼女の商業的な勘の鋭さ・虚仮威し(ハムレットは、実は、女だった!)も同時に指摘しておきたい。

 

              

 

 

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a1.、a2.

傑作「マスク映画」二本立て。この二作に連なるは、『アリス・スウィート・アリス』か。共通点として(というかキャッスルは絶対に見てると思うけど)、顔が潰れた人は顔を枕に突っ伏して眠る。この時、手の置き所が難しいから、遊ばせているのが妙に不気味。異なる点としては、『顔のない眼』は手術台といい墓場といいモルグといい「横になる」ことを徹底しているのに対し、『ミスター・サルドニクス』は拷問椅子に「座らせる」。この徹底ぶりは大きな違いだが、ハッチャけぶりでは圧倒的にサルドニクスの勝利。冒頭にキャッスル本人が登場するのがかわいくて最高で、発音が聞き取りやすいのも嬉しい。どちらもヤバい、不気味な雰囲気が立ちこめている。

デルトロはもう少し頑張ればフランジュみたいになれそう。デルトロは雰囲気がお伽噺ぽいだけであり、フランジュはお伽噺そのもので、ゆえに残酷たり得ている。

b1.

『誰が呼んでいる?』が圧倒的にすごい。舞台立ても話の筋もかなり古風な仕上がりだが、終盤地下室に入った瞬間に時空がねじ曲がり、突如「ガルヴァーニ電気」なんていうワードも飛び出すトンデモ作品。超常現象のせいで気が狂う物語が大好きなのだ。実はそれは超常でもなんでもなくて、科学的に説明できる事象である、とタネを明かす方が残酷で、より好みだ。収録作品の中では特に長い作品だったので、より強く印象に残ったのもあるか。次点は『雄鶏は鳴いた』『悪しき導き』『太陽』『伴侶』。これらもたいへん素晴らしい。ルヴェルは頻出するモチーフがあり、特に「鏡」「めくら」「醜悪な顔」「金欠」はよく出てくる。その中で『太陽』は少し異質で、「鏡」は出てくるのだが、恐怖を惹起する装置ではなく、囚人は鏡に映る手のひら一杯の太陽だけが生き甲斐。映画で言うなら『脱獄広島殺人囚』みたいな、グッと胸に迫る物語だった。