a1. 『ジャンヌダルク裁判』(ロベール・ブレッソン

a2. 『湖のランスロ』(ロベール・ブレッソン

a3. 『水の娘』(ジャン・ルノワール

a4. 『トップガン』(トニー・スコット

b1. 『異装のセクシュアリティ』(石井達朗)

 

 

ラストが「エンディング然とした映画」がハマらないという話。昨晩見た『合衆国最後の日』のエンディングとかも、かなりエンディング然としている。最後のワンカットまで映画が終わってしまうことを匂わせないで欲しいし、ブツッとエンドロールに入ってしまえる映画が好き。デルトロ『ナイトメア・アリー』ラストのブラッドリークーパーの顔アップは最悪。フリードキン映画で最も激烈な終わり方は『キラージョー』で間違いなし。アルドリッチでは『カリフォルニアドールズ』は「私たち最高じゃん」という最高な台詞で締めてくれるためかノれる。ただ終わり方で一番驚かされたのは『ワイルド・アパッチ』ではなく意外にも『特攻大作戦』…とこんな話は永遠に続けられる。でもリュミエール兄弟の映画に不思議な魅力を感じてしまうのって、終わり方が余りにも唐突であることが原因な気もする。たった1分足らずの映像とは言え予測することが出来ない。そこに物語が付加され、うまくオチたタイミングで終わってしまうと、作為しか感じず、何か嘘をつかれているような、そんな気持ちに。

 

そしてオッティンガーについて。ドイツ文化センターで見て以降、これといって過去作品を追ったわけではない。ただ『アル中』と『フリーク』は駄目で、『ラオコーン』だけがどうしてここまで私の核心に触れてきたのかがずっと疑問だった。三作品共にウルフぽい居直りの強さを感じさせるが、『ラオコーン』が最もそれを?とか色々考えたけど…今日、レズビア二ズムとフェミニズムが協働するのは難しい、ということを知り、閃いた。フェミニズムヘテロ中心主義的社会からの抑圧に抗する方向にエネルギーを向けるのに対し、レズビア二ズムは新しい自己を発見するため、お互い(女同士)にエネルギーを向ける。そのため、どこか自己充足的。上二作と『ラオコーン』の違いはそこにあるのかもしれない。二作品はレズビア二ズムぽく(即ち「映画」というメデイアであることに無自覚な印象)、『ラオコーン』はフェミニズムぽいのだ(即ち「映画」と格闘し、大胆にも居直ってみせるキャンプ感もある)。もしくは「映画」と「レズビアン」の関係を突き詰めて到達したのかもしれないが。何だか少しだけ、胸の内がスッキリした一日。

 

 

a1.

「簡潔な」映画を見終わると脳内がスッキリしたような気になるから良い。ブレッソンは好きだ。この度は動物が強く印象に残った(ジャンヌが火刑に処される前と後に、それぞれカメラに向かって近寄ってくる犬と、司教らがいるテントの覆いから飛び立つ二羽の鳥の映像が挿入される)。丁度昨晩読んでいた、蓮實『映画評論2009-2011』中の『東京公園』を巡る青山真治との対談で、明らかなつなぎ間違いを指摘した蓮實による「代わりに鳥が飛び立つ映像でも用いれば繋がったのでは?」との提案が頭に残っていたからであろうか。ファーストショットから「足」が印象的で、特に火刑台へと向かう際にジャンヌの足だけをフォローするカメラは絶品である。アスファルト舗装された道ではなく、ゴツゴツした岩の上を裸足で歩かされ、1度だけ群衆に足を引っ掛けられる。この見事な足のカットは後にカラックスに影響を与えたのではないか。閉塞された空間が主な舞台である中、ラストショットの垂直に屹立した棒。ジャンヌの姿はもはや跡形もない(その垂直性に対抗する聖職者が掲げる十字架は脆弱に見えるが、そこに新たな文脈を見出した『うそつきジャンヌ・ダルク』はやはり偉大だ)。フロランスドゥレの眼差しは忘れがたい。裁判の合間に突然泣き出してしまうカットも良かった。男装も重大なモチーフの一つで、彼女は女の装いを拒否し続けるが、最後火刑台上に縛り付けられると女性的な身体のシルエットが暴かれてしまう、というのが輪をかけて残酷。また、姿が映されない群衆は声だけで主張するが(Death to the Witch!!)、そんな彼らもいざ火あぶりの段になると黙ってしまう。群衆が黙る瞬間、否応なくこちらも、より映像にのめり込んでしまう。ジャンヌが収監される監獄には覗き穴があり、そこから英国兵やコーションは彼女を陰から覗いている。「覗き穴」も映画史に度々登場するモチーフだ。『ベネデッタ』でもやっていた。以前見たオランダ?かどこかのヒッチコックパロディの映画(日本未公開)でも覗き穴が良かったんだけど、タイトルど忘れ…結構好きな覗き穴映画(というか覗きマジックミラーやけど)は『怪奇な恋の物語』。

a2.

奇妙な西洋甲冑映画。「甲冑と甲冑の隙間を狙え」という身に纏うがゆえのアクションの在り方(ある種サスペンス)を追求しそうな所をそうは発展させず、甲冑は終始着脱が煩わしく、耳障りなものとして描写される。『ロミオとジュリエット』をわざわざ甲冑劇として描いたような、ランスロとグリニエーブルの恋愛劇を甲冑同士がぶつかり合う耳障りな音が邪魔をする、そんな奇妙な作劇が見受けられる所が頗る面白い。グリニエーブルがランスロに「抱いて」と口にするとき、ランスロは甲冑を脱がなければ彼女を抱くことは出来ない。そんな二人にこっそり忍び寄る彼らも皆甲冑を身に纏っているため、所在は丸わかりである。鼻につくランスロを急襲するために影に身を潜めたところで、表面は煌めき、また金属音を立てるからサプライズも何も無い。ランスロが敵の首をハねる切株場面から映画は始まり(!)、最後に彼は死す。ランスロは甲冑を身に付けたまま、同じように甲冑付きの同胞達の死体の山に突伏して死ぬのだが、『たぶん悪魔が』での死と対照的に、この死の場面は映画史上最も喧しい死ではないだろうか(他にも、聖歌が流れる中、甲冑の音を響かせながら闖入する喧しすぎる場面もあった)。またランスロが死ぬ前と後のカットには『ジャンヌ・ダルク裁判』で見られたように動物の映像(空を滑空する鷹)が二度インサートされる。鷹以外に、馬が何度も画面に登場し、印象的に「馬の目」が切り取られる。ブレッソンは『バルタザールどこへ行く』の象とロバの目(動物同士の間に「視線」を生みだすという大嘘!)を切り取っていたことを思い出す。馬の目は合計四度大写しにされる。最後は弓矢で脳天を突かれ死に瀕する馬の目で、着々と死に至る馬の目を四度に亘って執拗に捉える。この馬の目の在り方の推移は、本作に濃厚に立ちこめる死のイメ-ジを更に高める(まるで死者の軍勢かのように、馬が通り過ぎる後には死体が山積みされる)。思い返せば本作の初めての台詞は、森に住む老婆の「足音を聞いて最初に振り返る者は、必ずや先に死ぬ」というものだった。既に死は暗示されていたのだ(ただしこれは少女に向けた台詞)。再びランスロが彼女の元を訪ねた際、彼も死を暗示されることになる。そんなランスロが通った後に額を付ける少女も、やはり死ぬのだろうか?ワンカット、グリニエーブルが風呂に入る場面だけが手持ちで撮られていたのが気になる。

a3.

面白い!いやあ最高!ルノワールは映画と水の親和性の高さに自覚的(リュミエール兄弟?散水夫が登場する場面もある)。冒頭から心を鷲掴みにしてくる、馬に牽引される船、その上を流れとは反対方向に歩く男のランニングマシン状態(慣性の法則により)。力学を捉えた映画だ。映画における「水面」はかくあるべし、といった美しさ。叔父に暴行された後に犬と一緒に水面で佇む短いワンカットで水面に映る少女と犬が特に良い。フラッシュバック・夢といったモチーフも見られ、夢の中では時間逆行、重力が逆向きに働いたりと、これまで丹念に捉えられていた自然界の法則を大胆に飛び越える見事なシークエンス。ロマの家が焼かれる場面での暴力も見応えはあるが、白眉は船室で叔父に暴行を受ける場面での、ベッドの下に隠れる少女に対して威圧的に働く「指差し」と、船の窓から必死に藻掻く少女を捉えたカット。簡潔だが迫力満点の映像だった。ただ、船の窓カットでは、『悪魔のいけにえ』に見られる少女を引き摺り込んだ後に(鉄)扉をガシャンと閉めるアクション程の嘘を付き切れていないことは指摘しておく。ただ「火」といい「水」といい、映画と親和性が高いモチーフの取り入れ方が只者ではない。傑作だ。島津保二郎『隣の八重ちゃん』という映画がどうやら類似しているらしく、こちらも合わせて見たい。

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a4.

新作が楽しみ。新作ではもっと地面すれすれの画を見たい。じゃないと位置関係が全く把握できない。上空戦なら、飛行船とか飛ばして欲しい。

b1.

『夜叉が池』の板東玉三郎、『男か女か』『チャップリンの女装』のチャップリン、『荒武者キートン』のキートンなど、映画の草創期から現在に至るまで、多くの男装・女装は描かれてきた。それらが『お熱いのがお好き』や『サイコ』『テナント』『ビリディアナ』、デレクジャーマン、ケネスアンガー等の登場と共に質が変化してきたそうだ。「異装」が持つ説話的な効果には以前から興味があり(最近では『チタン』もあったし)、最近はシェイクスピアハムレット』における主人公ハムレットが実は女であった!という衝撃的な始まりを持つ『女ハムレット』というデンマーク映画が気になっていたこともあって、異装、そして性別の交換には非常に惹かれる何かがある。本著がそこに踏み込むのは主にフィールドワークを元に書き上げられた第1章のみで、それ以降はフェミニズム演劇、ゲイ/レズビアンフェミニズムを概観することに終始する。読み応えとしてはイマイチだが、これまで知らなかった世界に足を踏み入れるのは面白く、印象的だったアーティストや思想家を忘れてしまわないように以下に書き連ねる。

・女優の男装ージーンアーサー(『平原児』)、グレタガルボ(『クリスチナ女王』)、マレーネディートリッヒ(『モロッコ』)、イングリッドバーグマン(『ジャンヌ・ダルク』)、ジュリーアンドリュース(『ヴィクター/ヴィクトリア』)

・日常的に性の中間者として暮らすシャーマン、「ベルダ-シュ」。異装は他者の視点の介在によって完成する。

・マリア・ファン・アントエルペンは「性を隠蔽」して兵士として働き逮捕される。

calil.jp

近松門左衛門『難波土産』にて、虚実被膜という項目がある。

・同性だけの閉ざされた空間における同性愛『制服の処女』『翼をください

・同性愛者収容所ーネストールアルメンドロス『猥褻行為』

・言葉だけによるオルガスムーマーティンシャーマン『ベント』(濱口映画『不気味なものの』を想起する内容だ)

半陰陽ヒジュラー『ヒジュラ第三の性』『大いなる巡礼』(大谷幸三)

ソンタグ『反解釈』

・ハイナーミュラーハムレットマシーン』(そろそろ読まねば…)、マヤコフスキー『ミステリアブック』

・子宮内鏡を使って、自身の子宮頸を男女の観客に見せつけるーアニースプリンクル『愛のヴァイブレーション』

フェミニズム演劇の胎動ーリリアンヘルマン『子供の時間』(34)→80年代のレズビアン演劇『レズィビジョン』『賃貸用礼服』は、自己充足的。

・石井『ふり人間』

ベルイマンの演劇『ハムレット』は、ミスキャストだなどと言わせない、既存の性と役柄が膠着した関係を突き崩す。

・イヴォンヌレイナ、トリンミンハといったフェミニズム映画作家

・ワーウカフェと、その地下で開催されていたゲイレズビアン映画祭。バーバラーハマーの名前が!

・「われわれは賢明に同性愛者になろうとすべきであって、自分は同性愛の人間だと執拗に見極めようとすることはないのです。同性愛という問題の数々の展開が向かうのは、友情の問題なのです」ーミシェルフーコー

・イトーターリ『自画像1996』

全部読むぞ。

情報過小社会、アナロ自己満足

a1)『合衆国最後の日』(ロバート・アルドリッチ

b1)『墓場の少年 ノーボディオーエンズ』(ニール・ゲイマン

c1)『Self Destruction Blues』(ハノイロック)

 

 

 

小バエが集る部屋で、偶々読んでいた本に、マーナ・ラムというアメリカ人女性が演出した演劇『But What Have You Done For Me Lately?』について書かれた項があった。この劇は20分程度の小品なのだけど、「男が妊娠する」というSF的設定があり、非常に興味をそそられた。更にその作品が60年代後半のアメリカ、というラディカルなフェミニズム演劇揺籃期に生まれ出てきたことに。フェミニズム演劇揺籃期の想像力が、怪異な設定を生んだのだ。それでネットでタイトル・作者を入れて検索をかけるも、ジャネット・ジャクソンによる類似したタイトルをもつ曲しか引っかからない。何も情報がない!情報がない!クソ情報がない!まあ本には引用注が付いていたから、そこから調べるか(しかし未翻訳である。日本語で読めるフェミニズム演劇の文献は非常に少ないそうだ)。ネットはまだまだ不十分やな。信用できるのはロシアのサイトくらいやで。

 

そこから『アネット』と「フェミニズム演劇」の関係について妄想を膨らませる。「フェミニズム演劇」にはよく「人形」が登場するようで(舞台ー観客の幻想があるからこその発想ではあるが)重要なモチーフの一つ。ウェンディ・ホフマン『Incest』がその嚆矢。『Incest』では父親と祖父に性暴力を受けたかつての自分が、人形として舞台上に登場する。劇が始まると、素っ裸にされた少女人形と、その傍らに投げ捨てられた衣服が散乱している。なるほど確かに(現実的な制約もあり)、人形は効果的だ。亀井亨『無垢の祈り』も少女への性暴力場面では突如マリオネット人形に差し替わり、人が文字通りモノと化していたのが効果的だった。『アネット』におけるベイビーアネットも、そういう文脈上にあるのか。いや、ただ(これは見ている時にも気になったが)それなら「母=Ann」と「娘=Annette」の話に収斂していくはずだろう。しかしそうはならず、視点はほとんど父親=Henryである。また、数少ないAnn視点である「Six Women Accuse」の場面での、あのシュプレヒコール劇的な演出は、女性であるAnnでさえ、そういったものに距離をとっているようだ(彼女は古典的な劇の舞台女優)。うーむ、意外と考え甲斐のあるテーマかもしれんな。しかし所詮「アナロ自己満足」ですな。私にはそれが限界だ。クソ、今日も球磨川研究&院試勉強が捗らない。

 

 

a1)

アルドリッチ作品頻出のポン寄りの快楽が溢れ出している。編集はいつものマイケル・ルチアーノで、アクションのテンポ感を出すためのポン寄り・引きだけじゃなく、アクションとアクションの間を抜くこともする。実際の空軍大尉が乗った車両を襲う場面では、間を抜くことで(繋がっていないのだが)テンポ感を生むのが上手い。「目ではなく肩を刺された」ことを示す、あの呆気なさもさすが。途中からはサイロ3を離れホワイトハウスを中心に物語は進んでいく。「おいおい、今ランカスター達は何をしているのか見せてくれよ」と悶々とするのだが、そんなこちらの気持ちを見透かすかのように、再びサイロ3に戻ったときには、カメラはランカスターの顔のアップからすーっと引いていき、そこにカメラワークに合わせた劇伴が重なる。この瞬間ゾワっとした。おそらく撮影の経済的理由もあってか、ウィドマークは殆ど一人芝居。アルドリッチは別行動させるキャラクターの動かし方を心得ているはずで、ランカスターらを出し抜いてモンタナに居を移すことで見事に物語は盛り上がるのだが、今作に限っては、ウィドマークの処理の仕方が果たして良かったのだろうか、と疑問が残る。また、大統領の死と、彼からの遺言を託されたザックが立ち去るのに合わせてカメラは浮上・旋回して終わりを迎える。ここも『ワイルド・アパッチ』のラストと比較してしまうと、どうもエンディング然とし過ぎじゃないかな?あまり好きな方ではないけど『アパッチ』の終わりの方がまだ好きだ。エンディングで人が死ぬ場合の演出としては不満が残る。ただ、ゴールド作戦からミサイル発射目前までの一連の流れ、それから大統領機まで進む際のぐるぐる、全くオーラのないアメリカ大統領が余りにも面白かったので、満足。

b1)

ジャーロ映画のような始まり方をする本著。「え、これカーネギー賞受賞の児童書だったよな?」とまず驚く。だって黒服・黒手袋の怪しい男にたった5歳の赤ん坊が殺されそうになりながら何とか脱出するのが冒頭。恐い。そして行き着く先が人の寄りつかない墓場であり、赤ん坊はそこに棲む幽霊たちに育てられることになる。恐いと言ってもキング的なモダンホラーになるのではなく、数々の神話を換骨奪胎した貴種流離譚である。「夢歩き」という死者が使える技が出てくるが、これも旧来の、内からではなく外からやってくる夢の感覚だ。主人公であるノーボディは姿を消す能力を体得するのだが、そこにメンタルの問題が介在しているのが面白い。地下墓所に棲むスーリアも、訪れる者を恐がらせることしかしない。いじめっ子のモリーらにも、ノーボディは直接危害を加えることはせず、驚かせる。仲良しのスカーレットは、そんな常人とは違うノーボディの本性を知り、目に恐怖の色を浮かべる。このようなメンタルについての書き込みが、本書が普遍性を勝ち得た由縁だろうか。最後は不覚にもうるっと来てしまった。

c1)

暗すぎ。Self Destruction即ち自己破壊であると。にしても暗い。勝手に、もっと景気良い曲だとばかり。taxi driverもわざわざ”your”である辺りが気色悪い曲だ。アベルフェラーラ映画みたいな都市の底辺の香りがするかと思ったけど、こういうのが当時「ウケる暗さ」だったのか?そこまで深刻かと言われれば、どうなのだろう。表題曲、Problem Child、最後のDead by Xmasは中々好きでした。暗いけど。

♪You'll be dead by Xmas now anyway, You'll Lay beside me in our family grave, We'll be making love eternally, In a spiritual way

だってよ。

ジェームズガンとアルドルッチ?

a1)『飛べフェニックス』(ロバート・アルドルッチ)                                   a2)『ピースメイカー』(1-5話)(ジェームズ・ガン他)                      c1)『Bangkok Shocks , Saigon Shakes』(ハノイロック)

 

 

何の脈絡もなく二本の映像を見る中で、ガンの『ザ・スーサイドスクワッド』を見たときにも感じたことですが、アルドルッチ『特攻大作戦』を強く意識していることもあってか、ガンーアルドルッチはどこか通ずる所があるよなあ、と漠然と感じる。『飛べフェニックス』の作劇は見事で、大尉の立ち位置て曖昧なんですよね。だから途中で離脱させて、アラブ人攻撃部隊に襲われそうになるピンチに帰ってくる、という構成にしている。「リーダー」が重要なテーマである作品ゆえ、「大尉」がいると鬱陶しい。また余りに協調性のないボーグナインも別行動、即刻離脱させている。躱し方が見事だなあと思うんですが、同じことを『ザ・スーサイドスクワッド』のリックフラッグ・ハーレイでもやっていますし、『ガーディアンズオブギャラクシー』のガモーラ・ベイビーグルートでもやっている。チームものにおける作劇の基本なのかもしれないが、リーダー格と狂人は別行動させる辺りどこか似ているなあと。ただ、アルドルッチがストーリーテリングに徹するのに対して、ガンはどうしても、カメラと被写体の間に趣味性が介在してしまうのが残念な所。

 

 

a1)

偶然にも昨晩見た『突破口!』と通ずる場面があり驚く。肝心な所で飛び立てないウォルターマッソーに対し本作ではまさに今しかないという瞬間にエンジンがかかり、見事飛び立つ。冒頭から、無駄なく、その一点に向けて収斂していく映画の構成にやはりアルドルッチ!と快哉を叫ぶ(実際の撮影では不慮の事故によりパイロットのPaul Mantzは亡くなる)。砂漠のど真ん中に墜落してしまう際、二人の乗客が命を落とし、彼らの墓が建てられる。墓には十字架が供えられ、時々画面の端にちらつく二本の十字架が何とも不吉な印象を残す。ゆえにその十字架の上を滑空するラストは感動的だ。不吉、と言えば機長のスチュアートの顔を映したファーストショットから既に雲行きが怪しかったのだった。チーム一丸となって動くか、と言われればそう簡単にことは進まず、主に、プライドが傷つけられてふて腐れるジェームズスチュアートと常に理性的で最適解を導き出すハーディークルーガーとの小競り合いのせいで、飛行機づくりは思うように進展しない。他より多く働いているために、その分水を多めに頂くクルーガーへの厭味として、彼の目に付くところに「水使用の実態」と書かれたグラフをわざわざ用意して貼り付ける程の粘着ぶりが見物である。本作のカタルシスのポイントは、そんな馬の合わない二人が、お互いにすり寄って妥協点を見つけて意気投合する瞬間にあるのではなく、お互い「意見は曲げず」に問題を解決してしまう所。いざ飛ぶ段になっても、スチュアートはクルーガーの意見に耳を傾けず、エンジンを抑えることをしない。エンジンがかかれば、それはもうスチュアートの領分なのだ。またクルーガーも意見を曲げない男。二人の仲裁に立つアッテンボロー(とはいえ途中本気でスチュアートを叱る場面があるのだが、そこでのアッテンボローの顔、具体的に言うと歯が鮫みたいで凄い)は、クルーガーが、ただのおもちゃ飛行機の設計士だと知って愕然とし、発狂するが、クルーガーによる理論的裏付けを聞くことで納得する。クルーガーは、別に謝ることなんてしない。ここでも発言・行動の一貫性に感動する。仮病を使って足を捻挫したふりをするロナルドフレイザーも、一貫して軍曹に刃向かう。全キャラクター中、撮影のジョセフバイロックによって、昼夜を問わず、最も強い翳りを与えられているのはフレイザーである。特に、仮病を使っていることを忘れて不意に走ってしまた所をスチュアートに見つかる場面の陰影は凄まじい。半ば滑稽スレスレであった。猛暑の中、彼もまた気が狂ってしまった時に見るビジョンは、靄がかかって鮮明には見えないのがもどかしい。これは編集の妙であろう。更にマイケルルチアーノによる編集が光るのは、アラブ人によって殺害されてしまった軍曹らの遺体を発見する場面での、あの即物的な死体の見せ方だ。この提示の仕方は『ワイルド・アパッチ』に引き継がれている素晴らしい編集。それから精神を病んだアーネストボーグナインが単独行動に出る場面と、その後に続くスチュアートが息絶えた彼を発見する場面でのクロスフェードを使った編集も、また良い。ひときわ人柄の良さが際立っていたジョージケネディーは、本作きっかけに大好きになった。あの人の笑顔には救われるなあ。順撮りなのかしら?日差しのせいで徐々に皮膚がめくれていく顔のメイクも見所の一つ。皮膚がボロボロで髭を伸ばしっぱなしのスチュアートの表情には、鬼気迫るものがあった。

a2)

『ピースメイカー』の美点はタイトルコールにもある通り、歌とダンス(と動物)(ああいう時なのに全員真顔なのがガンのリアリティ)。ジェームズガンにとって両者はセットなのかもしれないが、バタフライ計画の本部襲撃に成功し絆を深めた一同が狭いキャラバンの中で曲をかけながら踊る。というかことある毎に踊る。ちなみに話が大きく前に進む4,5話はガンは脚本のみで監督はしていない。また今までの所、タイトルコールで確認できるキャラクター以外は登場しておらず、不必要に大所帯にしないところもまた良。回の終盤になると、思い思いの時間を過ごすメンバーの様子がカットバックで提示されるのが面白い。今のところハーコートの存在感がやや薄いのが気になる。あんまり楽しそうにしていない。エコノモスを演じるSteve Ageeは前作に引き続き良いが、与えられる台詞が単調過ぎるのと、出向を命じられ意気消沈しているのか、役者が手を抜いているのか判別が付かず悶々としたが、ゴリラをチェーンソーでぶった切る5話まで来てようやく馴染んできた。アデバヨは4話で柔道マスターを撃ち殺し(実は殺せてはいないが)一歩成長したにも関わらず5話では、まだ死体にトドメの一撃を食らわす?ことが限界なようだ。ジョンセナはもちろん最高で、ヴィジランテとのコンビはずっと見ていたい。「もう少しで仲良くなれたのに、また厭味を言ってしまった」と泣きながらベッドで反省していると、割れた窓ガラスからヴィジランテ登場、の一連の流れは笑った。またバタフライ達が乗ってきた?小型宇宙船は何なのだろう。ピースメイカーのX線カメラ付ヘルメットといい、ヒーロー/ヴィランの武器が素人に流用され、話が転がる。さあ残り三話。

c1)

第5話のテーマ曲が本アルバム中の「11th Street Kidz」。最も耳慣れた曲の「Tragedy」はあまりピンと来なかったが「Cheyenne」はとても良かった。アルバム通して聞くと段々とマイケルモンローの声がかすれて来、本曲の最後ではなんと尻切れトンボで終わる。大変刺激的。その後に続く「11th Street Kidz」「Walking with my angel」「Pretender」どれも良い。日本盤は『白夜のバイオレンス』というタイトルで、白地に薔薇だけという簡素なアルバムデザイン。ロックと薔薇。

 

 

 

メモ)イタリア映画祭では(金銭的な都合もあり)『スーパーヒーローズ』『マルクスは待ってくれる』『そして私たちは愚か者のように見過ごしてきた』の三本をオンライン鑑賞予定。6/19まで。忘れずに4500円確保しておくように。

 

www.asahi.com

突破口!

a1)突破口!(ドン・シーゲル)                                 b1)ハウス・オブ・M(ブライアン・マイケル・ベンディス

 

 

a1)

ウォルターマッソーは『突破口!』の翌年に公開された『サブウェイパニック』を見てい以来、この人が出ている作品には触れないようにしていたのだが(あの変顔映画は見ていて辛かった)、今回は不注意な事故。本作の彼は嫌いではないが、特段良いとも思えない。良かった俳優はジョンヴァーノンでしょうか。彼の「(マフィアの)連中には偶然なんて通用しない」という台詞に押されて支店長は自害する、口だけで人を殺す役を見事演じ切り、最後は車に轢かれて派手に死ぬ(死体は大写しにされる)。現場には最も遅刻してくるニューメキシコ州警察の愚鈍ぶりにニヤニヤ。「先を越した」とニヤニヤするジョードンベイカーも、実はウォルターマッソーに先を越されている。そんな二人が直接対決するラストも見事なのだが、私の不注意のせいか、中々浮上しないセスナ機は機会のトラブルによるものなのか、それともマッソーが相手を挑発しているのか分からず釈然としない。面白く見ながらもモヤモヤが溜まる一方であったが、後翼?を破壊され遂にセスナが機能不全、そしてタテに一回転!逆さまになりながらも(カメラも逆さまに)尚余裕を見せるマッソーに苛立つ。するとそれすらも彼にとっては織り込み済みであり、ベイカーは爆死。爆発する寸前に両手を大きく広げる、という大嘘と、派手な人肉片の飛散に万歳!「まあ、いいっか」と思っていたら、マッソーの予備の車のエンジンが中々かからない。マッソーは機械に愛されないキャラクターだったのだ、と「だからどうした」という話だが、腑に落ちた。(映画内で)始めて飛行する場面も、移動カットは飛ばされ、爽快感は皆無であった。他、印象的であったのはパークで隣のトレーターに住む伯母さんの役にマージョリーベネットは出演しており、さらに『マンハッタン無宿』での彼女の役とほぼ同じ役。途中イーストウッドについて言及する場面もあるし、これも観客を意識したジョークの一つなのだろうか?州警察を押しのけて現場に乱入してくる時の彼女とか、超良かった。また情報屋として、かたわの人が出ており、理屈は分かるが唐突な障害者の登場に、増村作品を思い浮かべたりもした。

b1)

最近は卒業研究関連で九州地方の治水事業のことばかりで、楽しいけど頭痛くなってきたので息抜きに。ニールゲイマン『エターナルズ』を読んだときにも思ったが(尚カービー版は未読でいつか読みたいと常々思う)、原作にある物語の「型」はそのまま残して良かったんじゃないの?という感想を抱く。MoMについては、さすがにクイックシルバーを出すとワケが分からなくなること必至だが、ワンダを唆す輩がいても良かったはずだ。彼女が一人で抱え込むから所々鈍重な映画になっている。サイキック能力を持つ少女レイラミラーとテレパシー能力を持つエマフロスト(何がどう違うのかはよく分からない。確か説明記載されていたけどよく分からない)が脳内で邂逅する画が迫力満点、豪快で良い。映画で巨大脳みそと言えばソダーバーグ『迷宮の悪夢』の、巨大顕微鏡で覗いた脳みそか。意外と巨大脳みそ映画て無いの?『バロン』だったり『未来惑星ザルドス』には巨大なカオダケは出てきたか。豪快で良かったのは、マグナス家主催の式典に殴り込みをかける時の画も中々。ウルトロン?が墜落する、あのデカさが重要。まあただ、いくら発狂して手に負えないからと言ってすぐに掌返すアベンジャーズ…たった十年ほどの間で「知識人」から「アカ」にまで評価が変わってしまうアメリカの風土が生んだ鬼畜ヒーローたちの「会合」は、それはそれはクレイジーで、見応えある。

 

ああ、心臓抜きで生きれたら!ただそれはそれで…

ボリス・ヴィアン『心臓抜き』を読んだ。す、素晴らしい!良すぎる! 

         

         心臓抜き (ハヤカワepi文庫) | ボリス ヴィアン, Vian,Boris, 文彦, 滝田 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

 

これも例によってジャケ読み。イタロ・カルヴィーノかなんかの小説を読んだ時だったか、誰か文芸評論家がヒエロニムス・ボスの絵画と比較しながら『まっぷたつ子爵』?を評しており、そこからの連想で「ボスっぽい装丁の小説」を探していたのだった。そんな時出会ったのがヴィアン『心臓抜き』。ボスのゴシック感はないけど、残酷なリアリズムと仄かな寓意を感じさせる作風が近いか。それ以上に本表紙は「機械仕掛けの有機物」であることが強調されており、そこが特異である。デザイナーは小竹信節。寺山修司の舞台美術なんかを担当されているそうだ。

 

                                                           

                       謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス - シブヤ経済新聞  

 

最近ではこんなのも見つけた。食人小説。

 

          僕は美しいひとを食べた | チェンティグローリア公爵, 大野 露井 |本 | 通販 | Amazon

 

で、『心臓抜き』。これが素晴らしい。とても仏語に根ざした文章であるために、ヴィアン特有の洒落はほとんど把握できていないが、それでもこの奇異な世界に惹かれる。田舎町に突如現れる「赤」というモチーフは映画『荒野のストレンジャー』を思い起こさせる、奇天烈な設定。「赤」は、例えばダリオ・アルジェントギャスパー・ノエなどが扱うとそれっぽい赤になりがちだが、イーストウッドの赤は、赤に込められた象徴性が剥ぎ取られた、剥き出しの赤、という感じ。本著における赤にも似た質感を感じる。不可思議な所が、パートカラー的に赤かったりする。

私は面白いと感じたが、物語にはキャラクターが不足しているようには思える。何かこう、古典的な?作劇ではなく、確かに場面と場面の連鎖はときに現世の理屈を超えてしまうが、読後感がスッキリとしない。この「神から見放された田舎」には秩序が存在しなのだ。唯一田舎から抜け出すことに成功するのは、アンジェルただ一人である。可能性が残されていた(文字通り飛翔することで)三つ子は、籠の中に閉じ込められることになる。そうなるとこの田舎全体を覆う目に見えない籠を想像してしまうではないか。ただ、籠からの解放=嗚呼、自由で素晴らしいとはならないのがヴィアンの優れた点だ。仮に三つ子が自由に空を飛べる鳥として、籠から何とか脱出したとしても、彼らは害獣として駆除されてしまうかもしれない。ペットショップでいつもよく言われる注意事項である。「絶対に逃がしたりしないで下さいね。コレは害獣ですから、生態系が乱れます」。三つ子は必ずや生態系を脅かす、害獣であるため、再び別の籠に閉じ込められるに違いない。そして脱出出来たかに見えたアンジェルであったが、『トゥルーマンショー』よろしく、書き割りの世界にぶち当たる瞬間が訪れ絶望するのではないか、と想像させてくれるヴィアンの筆致。現実を悲観的に捉えている作家は、ゴールがあるなどと思っていない。まあそれは問の立て方が誤っているんだし。籠を抜けた先は、また籠。抜けてもまた籠…の繰り返し。ジャックモールの(結局成就することはなかったが)恐ろしい計画にも、その一端を垣間見える。医師であるモール(医師であるのに、名字が「morte=死」!そして万能医者ではなくただの精神科医!)が、三つ子とクレマンチーヌを籠に閉じ込め、自身がその主となり、死ぬまで「診断」を下し続けるという恐ろしい計画だ。病気が治るも治らないもモールの気分次第。だって「診断」できるのは彼だけなのだから。そんな永遠の苦痛は、心臓曲線を描き、その曲線上をぐるぐると回り続けながら飛ぶマリエットとしても表現される。ああ、心臓さえなければ病気なんて気にすることはないのに!「診断」なんてへっちゃらなのに!ただご安心を、そんな主として作品世界を支配しているかに見えるモールも、クレマンチーヌから見ればただの「奇妙な」人に過ぎず。分かりやすい図式に収まらない。やはり無秩序だから。

ただそれを絶望的にならず、軽さをもって描写しているのがヴィアンの魅力的な点である。読んでいる間、あまりに醜い人間たちが、あまりに醜い所業を繰り返すのだが、なぜだか笑いが止らなかった。滝田文彦訳が素晴らしいのはもちろんのこと、司祭周りの場面など、抱腹絶倒である。まあ実際にペンテコステ派とかはああいう巡礼をしているそうだが…にしても司祭と聖道具係とがリング上でボクシングをするくだり、決着はレフェリーも兼ねている司祭(クソ!)がテクニカルノックアウトで勝利(クソ!)。腹を抱えて笑った。

 

穿った見方なのは承知の上、どこか『キラーエリート』にも通ずる叫び。「ああ、心臓抜きで生きれたら!ただそれはそれで…」。誰か抜け道を用意してくれ!

Tears in Rain / RIP Vangelis

ブレードランナー』を再見。寝れない夜の睡眠導入剤。しかしいつも目が離せなくなり、結局ロイ・バティのあの台詞をもう一度聞きたいがために最後まで見切ってしまう。

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あの場面に働く「マジック」は何なのだろう。現場でルトガー・ハウアーが思いついたアドリブだからか?いや、そんな意見は小賢しい知識のひけらかしに過ぎない。アドリブ至上主義に陥りがちだと、「演出されきった」俳優に降りてきた「役そのもの」「ナマの役」を評価する視座を失う。そう、間違いなく、雨が激しく降る中死に絶えてゆくルトガー・ハウアーには、彼の俳優としての肉体を通してロイ・バティの何かが顕現している。『ブレード・ランナー』自体、もちろん凝った映像は見応えあるし、何度見ても見飽きないが、演出は褒められたものではない。率直に言って退屈である(誤解の無いように、退屈=嫌いではないので、一応)。精巧に作られたスノードームの中を覗いているかのようで、飽きずに見れはするが、震えるほどの感動があるかと言われれば、ない。いや、毎回震えはするけど、「ヤバい場面」に立ち会ってしまったと錯覚するような瞬間があるかと言われれば、ない。その瞬間のある/なしに映画の存続はかかっている。ヤバい瞬間のない映画は、すぐに古びてしまうし、反対にたとえ2時間の内1時間59分退屈でも、たったワンカットでも「ヤバい!」と思わず声を上げてしまうようなカットを撮れている映画は、常に現在の映画たり得る。『ブレードランナー』は後者だ。ロイ・バティのラストは、何度見ても「映画の現在」として迫ってくる。

 

まず、これが如何に異様な場面かは、忘れられがちだ。ヒーローとヴィランがいて(便宜上)最終対決をするわけだが決着が付くかと思われたその矢先、ヴィランは「寿命」で死んでしまうのだ。それに、死ぬ間際に一言添えて。最終対決の決着の付け方が「寿命」。こんな設定を、説得力を持って描ききることが出来る世界なんて、『ブレードランナー』か『ウルトラマン』くらいではないか?それくらい異様で、狂った出来事が描かれていることを改めて。ロイ・バティはデッカードの手にかかって死ぬのではなく、勝手に死んでいく。生かされたデッカードには被造物たる自覚が芽生え、不条理さを痛感したことであろう(?)。ヤバい!面白い!

 

それと、ロイ・バティのこの純粋な目。彼にとっては目に映るもの全てが新鮮である。ゆえに彼は男だろうが女だろうが構わず愛する。レプリカントに性別があるのはおかしなことであり、それこそ創造主である人類のエゴだ。そんなレッテル貼りをもろともせずに、ロイ・バティは男女分け隔て無く愛する。このバイセクシュアル感が溜まらなく良いし、「だって何もかもが美しいから」と境界を易々と超えてしまうロイは、デッカードより遥かに自由である。そんな彼が、これまでオフワールドから地球への逃避行の間に目にしてきた数々の驚くべき光景を、無邪気に語るのだ。それに花を添えるのがVangelisの音楽だった。彼の曲はどこか深層心理に響くというか、原初的な感じの音楽で、それが純粋な眼差しを持つロイ・バティの最期に絶妙にマッチしている。最高!

 

ちなみにこの前タコの本を読んでいたら、作者はタコの一生をロイ・バティに重ねて描写しており、研究する内にタコに深くのめり込んでしまい、もう後戻りはできない所にまで達してしまったことがよく伝わってきた。またtears in rainと言えば『ドミノ』で、ドミノ・ハーヴェイのたった35年間の濃密すぎる人生が、またしてもロイ・バティの4年間に重ねられる(正しくはtear in the rainだっけか?)。影響力は甚大ですな。

 

 

RIP  Vangelis

 

アンラッキーに語り継がれる

真面目に書こうと努めたところで、良文が書けるわけでも、アクセス数が増えるわけでもない。あくまでも日記だから、今後はもっとくだけた文章を書いていく。

 

『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』を見た。

            

こういう性器を象った映画ポスターていつ頃からの流行り?『ニンフォマニアック』が()を女性器に見立てていたのは当時中学生の私には大変刺激的で、周りに宣伝しまくっていた思い出がある。本ポスターは簡潔で良いが、日本版ポスターは文字がうるさ過ぎてデザインとして酷く、映画祭のレッドカーペットを歩く衣装とは思えないような地味で簡素な格好をしていた監督も浮かばれない。


ニンフォマニアック』もギャスパーノエの『LOVE 3D』も本番行為(unsimulatedと英語では言うらしい)ががっつりと映るが、日本での公開時にはやはりモザイクがかかる。

 

countryhighlights.com

 

『アンラッキー・セックス』はそこを捻っており、なんとモザイクがポルノサイト風の味わいに。挑発的だ。それによって逆に猥雑さを増しているという指摘は理解できるが、あまりその手の「逆に」論には賛成したくない。本作について言えば、冒頭の流出コスプレセックスを隠してしまうことで、第三部の私設裁判場面で言及される「鞭プレイ」が何だったのか分からないままだ。皮肉なことにネットには無修正版が上がっている。「ネットで流出映像を見ることで完結する映画」、か。それは如何なものか。敢えて<自己検閲版>と銘打つ宣伝は大したものだと思うし、戦略的にもよく分かる。かつて高校時代に製作した拙作でも局部がアップになる映像があったのだが、努力空しく先生陣にカットもしくはモザイクを要請された。その横暴な要請への当てこすりとして、敢えて超超超低解像度のモザイクを画面全体にかけて対処したこともあるので、(おこがましいが)何となく気持ちは分かる。モザイクを勝手に入れられると、作品の美学が蔑ろにされたように感じる。

うーん、ただ何か引っかかる。今や映画は、ネットを見ることで始めて完結するメディアになってしまったのか。本作の問題ではないのかな、これは。ルーマニア推薦のアカデミー賞出品作品でもあるのに、堂々とモザイクに「アカデミー会員全員が抜いた!」みたいなことを書くセンスというか、度胸は素晴らしいし。

というかモザイクそのものに、ある種の異化効果はあるでしょう。私たちが当たり前のように目にする字幕にだって、異化効果はあるわけです。現実世界から、目に見えない強い要請が働く瞬間とでも言いましょうか。普段は意識しないように努めているわけですが、「いや、そのことを強く意識させてやろう」という姿勢が本作を貫いている。その視点から見れば、上で疑義を呈したモザイク問題もすんなりと受け入れられるかも。

 

「現実からの要請」、その最も大きな要請が「コロナ」。第一部の冒頭、花屋で買い物をしている主人公エミが花の匂いを嗅ぐためにすっとマスクを下ろすまで、私は本作がコロナ以後の世界を舞台にしていることに気付いていなかった。後景にいる人々がマスクを付けているにも関わらず、です。まさに「路傍の小石」を再発見するような、素晴らしいカットだったと思います。もはやマスクを付けて外出するのが当たり前と感じるようになってしまった自分の鈍感さに、思わず寒気が。

他にもマスクネタは山ほど。まず、どんなマスクを付けているかが重要。これといって法則を見つけ出せるわけではないけど、変な柄のマスクやフェイスシールド、もしくはマスクを付けていない人に出くわした時、なぜか緊張感が走る。今しか出来ない(はずの)作劇で、見事だと思いました。また、外だから、とマスクを外して歩く主人公に対して通行人が「おい!マスク付けやがれ!」と注意する場面では、私の身体も思わず反応。映画館は暗闇なのでバレないと思い、がっつりとマスクを下げて顔を露出させていたのですが、無言でスッとマスクを上げました。これは正に劇場でしか味わえない体験で、非常に有意義な時間を過ごした。「配信で見ればいいや」、なんていう腑抜けた人らをクサす場面でもあるのでしょうか。こういう些細な描写が頗る面白い。あ、そういえば突然カメラに向かって「オマンコなめてよ」とだけ言い残して去って行く通行人がいたが、アレは一体何や…?

またセックス自体、フィクションの世界に亀裂を入れる表現です。ソフトコアではそうはなりませんが、ハードコアともなるともう見ていて落ち着かないし、本番行為をする俳優さんの進退が不安になったり、と余計な心配までしてしまう。

 

ラドゥ・ジュデは優れた監督だと思います。それほど過去作をフォローできてはいませんが、特にロマ差別を扱った『アーフェリム!』は、ルイス・ブニュエルを想起させる、傑作でした。それに『野蛮人として歴史に名を残したい』も素晴らしい作品。どちらでも、「一個人が歴史に名を残す(してしまう)」ことが語られる。『アーフェリム!』にて、木の周りを親子でぐるぐる回りながら、「後世の人々は我々の行動を評価するのだろうか?」という台詞、その言わせ方が素晴らしいと思いました。それを作家性と呼んで良いなら、『アンラッキー・セックス』も、「一女性教師が(流出映像によって)ネット上に名を残してしまう」物語です。後世にまで語り継がれるかは分かりませんが、一生セックススキャンダルの烙印を押されたままでしょう。

うん、面白かった!