Tears in Rain / RIP Vangelis
『ブレードランナー』を再見。寝れない夜の睡眠導入剤。しかしいつも目が離せなくなり、結局ロイ・バティのあの台詞をもう一度聞きたいがために最後まで見切ってしまう。
あの場面に働く「マジック」は何なのだろう。現場でルトガー・ハウアーが思いついたアドリブだからか?いや、そんな意見は小賢しい知識のひけらかしに過ぎない。アドリブ至上主義に陥りがちだと、「演出されきった」俳優に降りてきた「役そのもの」「ナマの役」を評価する視座を失う。そう、間違いなく、雨が激しく降る中死に絶えてゆくルトガー・ハウアーには、彼の俳優としての肉体を通してロイ・バティの何かが顕現している。『ブレード・ランナー』自体、もちろん凝った映像は見応えあるし、何度見ても見飽きないが、演出は褒められたものではない。率直に言って退屈である(誤解の無いように、退屈=嫌いではないので、一応)。精巧に作られたスノードームの中を覗いているかのようで、飽きずに見れはするが、震えるほどの感動があるかと言われれば、ない。いや、毎回震えはするけど、「ヤバい場面」に立ち会ってしまったと錯覚するような瞬間があるかと言われれば、ない。その瞬間のある/なしに映画の存続はかかっている。ヤバい瞬間のない映画は、すぐに古びてしまうし、反対にたとえ2時間の内1時間59分退屈でも、たったワンカットでも「ヤバい!」と思わず声を上げてしまうようなカットを撮れている映画は、常に現在の映画たり得る。『ブレードランナー』は後者だ。ロイ・バティのラストは、何度見ても「映画の現在」として迫ってくる。
まず、これが如何に異様な場面かは、忘れられがちだ。ヒーローとヴィランがいて(便宜上)最終対決をするわけだが決着が付くかと思われたその矢先、ヴィランは「寿命」で死んでしまうのだ。それに、死ぬ間際に一言添えて。最終対決の決着の付け方が「寿命」。こんな設定を、説得力を持って描ききることが出来る世界なんて、『ブレードランナー』か『ウルトラマン』くらいではないか?それくらい異様で、狂った出来事が描かれていることを改めて。ロイ・バティはデッカードの手にかかって死ぬのではなく、勝手に死んでいく。生かされたデッカードには被造物たる自覚が芽生え、不条理さを痛感したことであろう(?)。ヤバい!面白い!
それと、ロイ・バティのこの純粋な目。彼にとっては目に映るもの全てが新鮮である。ゆえに彼は男だろうが女だろうが構わず愛する。レプリカントに性別があるのはおかしなことであり、それこそ創造主である人類のエゴだ。そんなレッテル貼りをもろともせずに、ロイ・バティは男女分け隔て無く愛する。このバイセクシュアル感が溜まらなく良いし、「だって何もかもが美しいから」と境界を易々と超えてしまうロイは、デッカードより遥かに自由である。そんな彼が、これまでオフワールドから地球への逃避行の間に目にしてきた数々の驚くべき光景を、無邪気に語るのだ。それに花を添えるのがVangelisの音楽だった。彼の曲はどこか深層心理に響くというか、原初的な感じの音楽で、それが純粋な眼差しを持つロイ・バティの最期に絶妙にマッチしている。最高!
ちなみにこの前タコの本を読んでいたら、作者はタコの一生をロイ・バティに重ねて描写しており、研究する内にタコに深くのめり込んでしまい、もう後戻りはできない所にまで達してしまったことがよく伝わってきた。またtears in rainと言えば『ドミノ』で、ドミノ・ハーヴェイのたった35年間の濃密すぎる人生が、またしてもロイ・バティの4年間に重ねられる(正しくはtear in the rainだっけか?)。影響力は甚大ですな。
RIP Vangelis