a1. 『ジャンヌダルク裁判』(ロベール・ブレッソン

a2. 『湖のランスロ』(ロベール・ブレッソン

a3. 『水の娘』(ジャン・ルノワール

a4. 『トップガン』(トニー・スコット

b1. 『異装のセクシュアリティ』(石井達朗)

 

 

ラストが「エンディング然とした映画」がハマらないという話。昨晩見た『合衆国最後の日』のエンディングとかも、かなりエンディング然としている。最後のワンカットまで映画が終わってしまうことを匂わせないで欲しいし、ブツッとエンドロールに入ってしまえる映画が好き。デルトロ『ナイトメア・アリー』ラストのブラッドリークーパーの顔アップは最悪。フリードキン映画で最も激烈な終わり方は『キラージョー』で間違いなし。アルドリッチでは『カリフォルニアドールズ』は「私たち最高じゃん」という最高な台詞で締めてくれるためかノれる。ただ終わり方で一番驚かされたのは『ワイルド・アパッチ』ではなく意外にも『特攻大作戦』…とこんな話は永遠に続けられる。でもリュミエール兄弟の映画に不思議な魅力を感じてしまうのって、終わり方が余りにも唐突であることが原因な気もする。たった1分足らずの映像とは言え予測することが出来ない。そこに物語が付加され、うまくオチたタイミングで終わってしまうと、作為しか感じず、何か嘘をつかれているような、そんな気持ちに。

 

そしてオッティンガーについて。ドイツ文化センターで見て以降、これといって過去作品を追ったわけではない。ただ『アル中』と『フリーク』は駄目で、『ラオコーン』だけがどうしてここまで私の核心に触れてきたのかがずっと疑問だった。三作品共にウルフぽい居直りの強さを感じさせるが、『ラオコーン』が最もそれを?とか色々考えたけど…今日、レズビア二ズムとフェミニズムが協働するのは難しい、ということを知り、閃いた。フェミニズムヘテロ中心主義的社会からの抑圧に抗する方向にエネルギーを向けるのに対し、レズビア二ズムは新しい自己を発見するため、お互い(女同士)にエネルギーを向ける。そのため、どこか自己充足的。上二作と『ラオコーン』の違いはそこにあるのかもしれない。二作品はレズビア二ズムぽく(即ち「映画」というメデイアであることに無自覚な印象)、『ラオコーン』はフェミニズムぽいのだ(即ち「映画」と格闘し、大胆にも居直ってみせるキャンプ感もある)。もしくは「映画」と「レズビアン」の関係を突き詰めて到達したのかもしれないが。何だか少しだけ、胸の内がスッキリした一日。

 

 

a1.

「簡潔な」映画を見終わると脳内がスッキリしたような気になるから良い。ブレッソンは好きだ。この度は動物が強く印象に残った(ジャンヌが火刑に処される前と後に、それぞれカメラに向かって近寄ってくる犬と、司教らがいるテントの覆いから飛び立つ二羽の鳥の映像が挿入される)。丁度昨晩読んでいた、蓮實『映画評論2009-2011』中の『東京公園』を巡る青山真治との対談で、明らかなつなぎ間違いを指摘した蓮實による「代わりに鳥が飛び立つ映像でも用いれば繋がったのでは?」との提案が頭に残っていたからであろうか。ファーストショットから「足」が印象的で、特に火刑台へと向かう際にジャンヌの足だけをフォローするカメラは絶品である。アスファルト舗装された道ではなく、ゴツゴツした岩の上を裸足で歩かされ、1度だけ群衆に足を引っ掛けられる。この見事な足のカットは後にカラックスに影響を与えたのではないか。閉塞された空間が主な舞台である中、ラストショットの垂直に屹立した棒。ジャンヌの姿はもはや跡形もない(その垂直性に対抗する聖職者が掲げる十字架は脆弱に見えるが、そこに新たな文脈を見出した『うそつきジャンヌ・ダルク』はやはり偉大だ)。フロランスドゥレの眼差しは忘れがたい。裁判の合間に突然泣き出してしまうカットも良かった。男装も重大なモチーフの一つで、彼女は女の装いを拒否し続けるが、最後火刑台上に縛り付けられると女性的な身体のシルエットが暴かれてしまう、というのが輪をかけて残酷。また、姿が映されない群衆は声だけで主張するが(Death to the Witch!!)、そんな彼らもいざ火あぶりの段になると黙ってしまう。群衆が黙る瞬間、否応なくこちらも、より映像にのめり込んでしまう。ジャンヌが収監される監獄には覗き穴があり、そこから英国兵やコーションは彼女を陰から覗いている。「覗き穴」も映画史に度々登場するモチーフだ。『ベネデッタ』でもやっていた。以前見たオランダ?かどこかのヒッチコックパロディの映画(日本未公開)でも覗き穴が良かったんだけど、タイトルど忘れ…結構好きな覗き穴映画(というか覗きマジックミラーやけど)は『怪奇な恋の物語』。

a2.

奇妙な西洋甲冑映画。「甲冑と甲冑の隙間を狙え」という身に纏うがゆえのアクションの在り方(ある種サスペンス)を追求しそうな所をそうは発展させず、甲冑は終始着脱が煩わしく、耳障りなものとして描写される。『ロミオとジュリエット』をわざわざ甲冑劇として描いたような、ランスロとグリニエーブルの恋愛劇を甲冑同士がぶつかり合う耳障りな音が邪魔をする、そんな奇妙な作劇が見受けられる所が頗る面白い。グリニエーブルがランスロに「抱いて」と口にするとき、ランスロは甲冑を脱がなければ彼女を抱くことは出来ない。そんな二人にこっそり忍び寄る彼らも皆甲冑を身に纏っているため、所在は丸わかりである。鼻につくランスロを急襲するために影に身を潜めたところで、表面は煌めき、また金属音を立てるからサプライズも何も無い。ランスロが敵の首をハねる切株場面から映画は始まり(!)、最後に彼は死す。ランスロは甲冑を身に付けたまま、同じように甲冑付きの同胞達の死体の山に突伏して死ぬのだが、『たぶん悪魔が』での死と対照的に、この死の場面は映画史上最も喧しい死ではないだろうか(他にも、聖歌が流れる中、甲冑の音を響かせながら闖入する喧しすぎる場面もあった)。またランスロが死ぬ前と後のカットには『ジャンヌ・ダルク裁判』で見られたように動物の映像(空を滑空する鷹)が二度インサートされる。鷹以外に、馬が何度も画面に登場し、印象的に「馬の目」が切り取られる。ブレッソンは『バルタザールどこへ行く』の象とロバの目(動物同士の間に「視線」を生みだすという大嘘!)を切り取っていたことを思い出す。馬の目は合計四度大写しにされる。最後は弓矢で脳天を突かれ死に瀕する馬の目で、着々と死に至る馬の目を四度に亘って執拗に捉える。この馬の目の在り方の推移は、本作に濃厚に立ちこめる死のイメ-ジを更に高める(まるで死者の軍勢かのように、馬が通り過ぎる後には死体が山積みされる)。思い返せば本作の初めての台詞は、森に住む老婆の「足音を聞いて最初に振り返る者は、必ずや先に死ぬ」というものだった。既に死は暗示されていたのだ(ただしこれは少女に向けた台詞)。再びランスロが彼女の元を訪ねた際、彼も死を暗示されることになる。そんなランスロが通った後に額を付ける少女も、やはり死ぬのだろうか?ワンカット、グリニエーブルが風呂に入る場面だけが手持ちで撮られていたのが気になる。

a3.

面白い!いやあ最高!ルノワールは映画と水の親和性の高さに自覚的(リュミエール兄弟?散水夫が登場する場面もある)。冒頭から心を鷲掴みにしてくる、馬に牽引される船、その上を流れとは反対方向に歩く男のランニングマシン状態(慣性の法則により)。力学を捉えた映画だ。映画における「水面」はかくあるべし、といった美しさ。叔父に暴行された後に犬と一緒に水面で佇む短いワンカットで水面に映る少女と犬が特に良い。フラッシュバック・夢といったモチーフも見られ、夢の中では時間逆行、重力が逆向きに働いたりと、これまで丹念に捉えられていた自然界の法則を大胆に飛び越える見事なシークエンス。ロマの家が焼かれる場面での暴力も見応えはあるが、白眉は船室で叔父に暴行を受ける場面での、ベッドの下に隠れる少女に対して威圧的に働く「指差し」と、船の窓から必死に藻掻く少女を捉えたカット。簡潔だが迫力満点の映像だった。ただ、船の窓カットでは、『悪魔のいけにえ』に見られる少女を引き摺り込んだ後に(鉄)扉をガシャンと閉めるアクション程の嘘を付き切れていないことは指摘しておく。ただ「火」といい「水」といい、映画と親和性が高いモチーフの取り入れ方が只者ではない。傑作だ。島津保二郎『隣の八重ちゃん』という映画がどうやら類似しているらしく、こちらも合わせて見たい。

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a4.

新作が楽しみ。新作ではもっと地面すれすれの画を見たい。じゃないと位置関係が全く把握できない。上空戦なら、飛行船とか飛ばして欲しい。

b1.

『夜叉が池』の板東玉三郎、『男か女か』『チャップリンの女装』のチャップリン、『荒武者キートン』のキートンなど、映画の草創期から現在に至るまで、多くの男装・女装は描かれてきた。それらが『お熱いのがお好き』や『サイコ』『テナント』『ビリディアナ』、デレクジャーマン、ケネスアンガー等の登場と共に質が変化してきたそうだ。「異装」が持つ説話的な効果には以前から興味があり(最近では『チタン』もあったし)、最近はシェイクスピアハムレット』における主人公ハムレットが実は女であった!という衝撃的な始まりを持つ『女ハムレット』というデンマーク映画が気になっていたこともあって、異装、そして性別の交換には非常に惹かれる何かがある。本著がそこに踏み込むのは主にフィールドワークを元に書き上げられた第1章のみで、それ以降はフェミニズム演劇、ゲイ/レズビアンフェミニズムを概観することに終始する。読み応えとしてはイマイチだが、これまで知らなかった世界に足を踏み入れるのは面白く、印象的だったアーティストや思想家を忘れてしまわないように以下に書き連ねる。

・女優の男装ージーンアーサー(『平原児』)、グレタガルボ(『クリスチナ女王』)、マレーネディートリッヒ(『モロッコ』)、イングリッドバーグマン(『ジャンヌ・ダルク』)、ジュリーアンドリュース(『ヴィクター/ヴィクトリア』)

・日常的に性の中間者として暮らすシャーマン、「ベルダ-シュ」。異装は他者の視点の介在によって完成する。

・マリア・ファン・アントエルペンは「性を隠蔽」して兵士として働き逮捕される。

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近松門左衛門『難波土産』にて、虚実被膜という項目がある。

・同性だけの閉ざされた空間における同性愛『制服の処女』『翼をください

・同性愛者収容所ーネストールアルメンドロス『猥褻行為』

・言葉だけによるオルガスムーマーティンシャーマン『ベント』(濱口映画『不気味なものの』を想起する内容だ)

半陰陽ヒジュラー『ヒジュラ第三の性』『大いなる巡礼』(大谷幸三)

ソンタグ『反解釈』

・ハイナーミュラーハムレットマシーン』(そろそろ読まねば…)、マヤコフスキー『ミステリアブック』

・子宮内鏡を使って、自身の子宮頸を男女の観客に見せつけるーアニースプリンクル『愛のヴァイブレーション』

フェミニズム演劇の胎動ーリリアンヘルマン『子供の時間』(34)→80年代のレズビアン演劇『レズィビジョン』『賃貸用礼服』は、自己充足的。

・石井『ふり人間』

ベルイマンの演劇『ハムレット』は、ミスキャストだなどと言わせない、既存の性と役柄が膠着した関係を突き崩す。

・イヴォンヌレイナ、トリンミンハといったフェミニズム映画作家

・ワーウカフェと、その地下で開催されていたゲイレズビアン映画祭。バーバラーハマーの名前が!

・「われわれは賢明に同性愛者になろうとすべきであって、自分は同性愛の人間だと執拗に見極めようとすることはないのです。同性愛という問題の数々の展開が向かうのは、友情の問題なのです」ーミシェルフーコー

・イトーターリ『自画像1996』

全部読むぞ。