世を憂う術すら知らない

a1. 『キラー・ジョー』(ウィリアム・フリードキン

a2. 『ガーディアン/森は泣いている』(ウィリアム・フリードキン

a3. 『ジェイド』(ウィリアム・フリードキン

a4. 『ハンテッド』(ウィリアム・フリードキン

 

 

 

本日はフリードキンの作品をまとめて見る。数年前『恐怖の報酬』について色々と考えた際に一気見しているのだが、『ハンテッド』だけは初見。フリードキンはそのどれも同じスタッフを二度以上使うことがほとんどなく、作家的な監督ではない。一作品毎に映像のタッチがことごとく異なる。通して見てみると、異様な編集と脈絡のない突飛な描写が目に付く。今日見た4本以外でも、『クルージング』での取調室に闖入してくる巨漢が物語に僅かも寄与しないことには衝撃を受けた。『エクソシスト』は特殊メイクの点からも語られることが多い作品であるが、おそらくフリードキン自身は「ワンカットの中で外見が変化してゆく」ことには興味がなく(当然技術的な制約もあるが)、当作品で印象的なつなぎは、カットが移り変わるとまるで別人のように「変わってしまっている」点にあり(80年代に入り、クローネンバーグ作品を筆頭にワンカット内で変容する肉体を映し出すことが出来るまでに技術が進歩してからは、90年『ガーディアン』に至るまで恐怖映画を監督していない)、フリードキン映画の作劇もここに集約される。『キラー・ジョー』での殺人依頼しかり、事態は既に起こってしまったこととして提示する作劇を好んでいる。起こってしまったが故に、登場人物達はその火消しに駆り立てられるのだ。まるで映画の方からカメラの人間たちを追い立てているかのような感覚ゆえに、時にフリードキンは「鬼畜監督」などと言われたりする。また実景を、単なる情報提示としてではなく、世界観を作りあげるものとしてかなり重要視しているであろうことも伺える。同様のことは、オープニングクレジットについても言えるだろう。また「悪夢にうなされなければ主人公たり得ない」とでも考えているのかと、必ずと言っていいほど、フラッシュバックのシーンがある。またフリードキンの映画はよく「リアルだ」と言われるが、殊に犯罪映画に限って言うなら、多くの場合主人公を警察に設定することで、「警察どこ行ったんだ問題」をクリアしている。リアル、と言えばその点でしょうか。

 

 

a1.

ロケ地の選定が秀逸である。トレーラーハウス、ストリップ・クラブ(女の裸を見ながら保険金殺人の話をする馬鹿がどこにいる?)、クラブ前の寂れた都市の雰囲気、廃業した遊園地、鄙びたダイナー、ピザ屋の地下室、今は使われていない線路など。どこもかしこもアメリカ映画的なロケ地選定でありながら、そのどれもが寂れ/鄙びている(またロケ地に限らず、執拗に映される「皿の中身」もアメリカ的で、キャセロールにピザ、マッシュポテト、そしてフライドチキンだ)。後景に映る都市には「傷跡」が残されているのだ。その傷を「受け継ぐ」かのように、犯罪者は傷を負い(傷を負い、汚い身なりになるまで落ちぶれて始めて風景に/映画に馴染む)、そしてまた次の世代へと傷跡は継承される。ただそういう風に事態を俯瞰的に見れる登場人物などこの作品世界には存在せず、世を憂う術すら知らない。それは、登場の際にはどこか超越者のような風体をしたマシュー・マコノヒーも例外ではなく、キズモノの赤ん坊が生まれることに心の底から喜んでしまっている。傑作としか言いようのない、素晴らしい映画だ。一点だけ残念な所を。母親をのせた車を爆破する場面で、オイルに火を付け、ジョー達が乗った車が走り出してから爆発するまでをワンカットで収めたかったのだろうが(その痕跡は見て取れる)、実現できてはいない(それはそれで良いところもある。エミール・ハーシュの顔から切り返した時には「すでに」車は火に包まれている)。フライシャー『ラスト・ラン』のような車爆破を何としても実現させて欲しかった。

a2.

ジョンアロンゾは数少ないフリードキン組のメンバー(と言ってもいいのかな?)。アロンゾについて語る動画も出てきたし、親交があったのでしょう。彼は『Mayhem on a sunday afternoon』というTV映画の撮影第二部隊として参加しており、監督がフリードキン。後に『チャイナタウン』を撮っており、それを踏まえると本作での起用も頷ける。特にチャイナを最も思い出すのは黒人のベビーシッターが自転車で通勤中に転倒し崖を転げ落ちて死んでしまう場面での、死んだ黒人の顔のアップには、件の「水門に挟まった死体の顔」をオーヴァーラップ。にしても、ここのつなぎが異様で、車輪が穴に嵌まってしまい転倒するカットが変わると、いきなりベビーシッターの顔は血まみれになっている。このつなぎは頻出する。普通の通りに面した普通の住宅に、恐ろしい部外者がやってくる恐怖を描いており、なぜだか昼にも関わらず夜みたいに見える。家の周りを取り囲む自然が「影」として屋内に投影され、まるで自然が侵食してくるかのような感覚を与える。森と人間とが融合したヴェルーシュカ『変容』のようなビジュアルをしたベビーシッターと赤ん坊を取り合う様は面白く、ベビーシッターが扉を拳で叩き割る際に「ばいん!ばいん!」とヘンテコな効果音を付けている。またアッパーな恐怖映画には欠かせない存在である殺され役を三人配しており、彼らが大木にシバかれ、根っこに串刺しにされて、狼には四肢を噛み千切られ、最後には自然発火する様は圧巻だ。その内の一人がアホみたいにデカいナイフを持っているのだが、「リアルな」恐怖を謳った作品にしては笑わせる小道具だ。一体何を考えてこんな小道具を?

a3.

チャイナタウンで展開される派手なカーチェイス、最後は埠頭で、黒のサンダーボルトに乗った犯人が逃走することで決着が付く。面白いのだが、ここがどうもフリードキンらしくない。第一、人が全然走らない。エスターハースの脚本が、率直に言ってあまり面白くない、という問題が大きい。自身がジェイドであることを取り調べでは涙ながらに否定しておきながら、その後得意顔で肯定する辺りは面白いが(しかも自ら語り出す)、彼女を精神科医という設定にした点は、何というか、非常に気色が悪い。また主人公のデヴィッド・カルーソーは、見ていてワクワクしない俳優だ。この役はジェームズ・ウッドとかで見たかった。唯一良かったのはホルト・マッキャラニーでしょうか。『ナイトメア・アリー』と似たような立ち位置の彼は、登場は少ないながらも抜群の存在感。カルーソーが美容室から逃げ出した娼婦を追う場面、追う彼目線のショットがあるのだが、このショットは『ラストナイト・イン・ソーホー』に引き継がれている。

a4.

トミーが始まりから終わりまで戦闘用の服ではなくヨレヨレの私服(しかも森の中で目立つ)を着ているのが新鮮。対してベニチオは顔に迷彩を塗ってレザーのジャケットを着ており、衣装からも man hunt が投げかける心の闇が伝わってくるが、唯一家族に会いに行く場面で普通のコートを羽織っていたのには違和感を感じた。その場面から、途轍もなく引き延ばされた圧巻のチェイスが始まる。このチェイスは、本作における「狩り」の肝でもある「痕跡」が鍵となる。痕跡を追えない者は、たとえ拳銃を持っていようとベニチオを捕獲することなど不可能であり、本作のFBIは徹底してその嗅覚を欠いた無能である。ラストの師弟対決は、至るべくして至った対決で、そこでの格闘アクションにはアイデアがふんだんに盛り込まれているわけではなく、一つの場を設定し(滝が流れるすぐ横の狭い岩場)細かいナイフ格闘術をカメラで捉えることに執心する。ここの格闘では重みが感じられ、私としてはかなり好きなタイプの格闘だ。第一、面白くならない訳がない舞台立てであり(『脱出』や『アポカリプト』など)森×滝映画には滅法弱い。わざわざ河を横切らせたり、泳がせたり、落下させたりと、ただでさえ過酷な環境でさらに過酷なアクションを俳優に強いるフリードキン映画のチェイスは、何だか「追いつくことが予想される」チェイスであり、「追いつくか逃げ切るか」のハラハラドキドキに主眼を置いておらず、俳優のからだを酷使することを重視している。ただ「人が走る様は見ていて面白い」のだ。フリードキン映画では、逃げ手と、その存在に気付いていない追っ手とが壁一枚挟んで同じ画面に収まるカットが頻出するが、こういうカットには「チェイスにおける顔の重要性」について考えさせるものがある。最低限のカットは抑えていると言える。また、つなぎで、動物(飛び立つ鳥とか)を用いるのだが、これにより編集のリズムが出ている。特異な編集として一点だけ。例のチェイスで、公園に設えられた小さな滝の向こう側にベニチオを幻視してしまう場面で、またもやサブリミナル手法を用いている。真っ暗闇の滝の向こう側にカメラがすーっとズームしてゆく空のショットが印象的であった。