マニエリスム的屍、フィロソフィカル・ゾンビ?

a1. 『セリーヌとジュリーは舟で行く』(ジャック・リヴェット

a2. 『赤い夜/影の男』(ジョルジュ・フランジュ

 

 

明日はモンス・デジデリオの画集が届くはず。なんやかんや忙しいから週末まではお預けかな。土曜日に読み込もう。それから私の本棚の積ん読本の中でも異彩を放つ背表紙の『アドムルコ会全史』(文字が金色でピカピカ輝く)にそろそろ手を付けようかな、なんて考えていた一日。ただ、『ピラネージ』の余韻をもう少し味わいたく、小説はまだいいかも。

ウロンスキー(ヴロンスキーとも表記される)との邂逅が、レヴィ『高等魔術の教理と祭儀』に与えた影響の大きさを知る。ウロンスキーは数学者であり科学者であったが、後半生では数秘術論理や永久機関等を研究・開発しており、下図はウロンスキーが製作を試みたキャタピラ風の乗り物。最も心惹かれるのは「予言機械」(プロニヨメートル)と呼ばれる未来を予知できる装置で、これはウロンスキーの死後失われていたが、のちにレヴィの所有へ帰したそう。

 

いやあ、入門編的な初級の書物ながら、面白くてずっと読んでしまう。タロットカードの起源を(本当は15世紀のイタリア・フランスに生まれた)エジプトに求め、それを受けて論を発展させた(例の「エノク創世記」のこと)レヴィ。この18世紀末の辺りから、何やらマインドセットが大きく変わりつつある予感がしますね。それは多少なりとも現代にまで受け継がれている所はあるのではないか、と。

 

a1.

いやはや、凄いものを見た。本作の種映画が『不思議の国のアリス』だと気付いたのが中盤くらい。というのもビュル・オジェとその恋敵がそれぞれ赤と青の服を着て競い合う場面でピンと『マトリックス』を連想してしまい、そうしたら色々と繋がって見えてきてしまう(『マトリックス』が『アリス』を参照しているのは言うまでもない)。不可思議な始まり方をする本作、はじめはゲームをやっているというマインドセットでなければ会話ができない二人を描く、一見ただただお茶目だが、内実は「演技」についての「演技」なのではないか、などと勘繰りながら、つまり自身の瞳を二重化しながら見進める。それはそれで面白い映画になっており、お互いに相手の存在に気付きつつも目を逸らしながらの追っかけ合いは、見終わった今なら「白いウサギか」と納得するが、見ているまさにその時にはセリーヌとジュリーの芝居が二重に見え、無駄なこととは分かりつつも「本心」を探ろうとしていた。ジュリーの恋人?ギル-を騙す場面なんて、めちゃくちゃ最高だった。ギル-から受け取った結婚指輪を公園で読書をしている女性へ手渡す。この映画自体、ジュリーが読書をする場面から始まっているが、そこら辺で本を読める環境があるフランスは良いですね。また、主観ショットを軸に構成されたカッティングの早い、どこか身も蓋もなく見えるカット割を大いに楽しんでいた。そんな中、画面に異変を感じたのは、セリーヌが例の屋敷に赴く場面で、まるでセリーヌの回想のように「(パンで捉えられる)人形」や「金魚鉢にささったヒナギク」がインサートされるのだが、それは以前ジュリーの主観として撮られたショットのはず(記憶違い?見覚えがあるのは確か)。ここで感じた違和感が次第に膨らみ、実際、セリーヌとジュリーは、二人で一役(アンジェル)を演じることになるのだから、既にこの時点で予告されていたということか。このような断片的なカットが繰り返しインサートされ、それらが次第に繋がり、意味を持ち出す、といえば思い起こすはアラン・レネ『ジュテーム、ジュテーム』である。これでも「絶妙な既視感」を巧みに演出していたが、本作も負けていない。だけど、これまでつらつら書いたことは、『セリーヌとジュリーは舟で行く』の魅力の半分に過ぎない。もう半分は、フィクションの世界に現実から働きかける、というアイデアと、その際に見てしまう屍のような登場人物たちの姿である。セリーヌとジュリーは、血のつながりに縛られる少女を助け出そうとフィクションの世界に潜入する。はじめは鮮明に見えていたはずのその世界なのだが、いざ二人で突入してみるとどうやら様子がおかしく、館に住む全員、顔色が非常に悪い。そして当然フィクションの世界の住人なので、台詞にない言葉をかけても、何ら反応は得られない。彼らを解放するには、「飴」が必要で、それだけが屍と化して永遠に同じ芝居をし続けなければいけない登場人物を救い出すことが出来る。最初の見方に戻れば、ここでも再び芝居は二重化されている。こちらはマニエリスム的だ。既存のもの同士の、それも人工物の掛け合わせで立ち上がる生気のない世界。舟で逃げ出す少女とセリーヌとジュリーが、思わず出くわしてしまう屍のような彼らには、何かこの世ならざる不気味さがある。それは怪物を見た、というよりは、解像度の違う何かが現実に侵入してきている、みたいな。二次元だと思っていた作りものが突如のっぺりした性格はそのままに三次元の世界にやってきてしまった、みたいな。お伽噺の世界をこのように映像化したリヴェットは、たいへん優れた感性を持っていたに違いない。明らかに「バックステージ」を映してしまうその鮮烈さにも、撃たれた。ふと「バックステージ」なんて口走ってしまったが、徹頭徹尾「俳優論」の映画である。それが『不思議の国のアリス』の世界観で展開される、という奇異な所が、本作最大の魅力。

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傑作。ゲルト・フレーベの出演が嬉しい。フランジュはヨーロッパの犯罪映画史に自覚的なのだ。ところでテンプル騎士団のテーマが非常に格好いい!女怪盗の甘いテーマも泣かせる。フランジュ自ら音楽を手がけている。脚本家のジャック・シャンプル-は重要人物ですね。覚えておこう。