カステロフィリア

b1. 『ピラネージ』(スザンナ・クラーク)

 

梅雨入りしましたね。濡れるのは嫌だけど、日中でものっぺりと明るいのは過ごしやすいです。ちょうど湿度の高い小説を読んでいて、思いがけず現実とフィクションが通じる。

 

 

b1.

幻想文学の価値とは、固定された考え方、つまり現実に軸足を置いたファンタジー観を突き崩す所にある。後段になって、ピラネージ(=マシュー)とラファエルが広間群について会話する際、ラファエルが「ここでは表現としての川は山”しか”見ることが出来ない」と言うとき、その“しか”という言葉にピラネージは敏感に反応する。“しか”には優劣があるじゃないか、と。決して現実の山や川の方が優れていて、異世界の山や川が劣っているなんてことはないのだ。道行く人とすれ違う際、彼は、広間群に立ち並ぶ像と同じ顔と出くわして驚く。異世界は、彼の生活に豊かさをもたらしている。本作では「記憶」が重要なモチーフであり、「もうひとり」に記憶喪失を指摘された辺りで、作品世界に亀裂が入る。思えば、時間・空間に至るまで全てが相対的な表記しかなされていないし、「もうひとり」という呼び方も、あくまで相対的なものだ。細部の描写が鋭く、ピラネージは常日頃日記を付けているのだが、自分が書いた記憶のない日記が出てきたり、また膨大な量となった日記には索引も付けており、そこにまるで知らない=覚えていない人物についての索引がずらっと並ぶ。恐ろしい。こういったブツとして提示されると思わずドキリとしてしまう。もう1点、魅力的な細部は、日記に記載されている第六章で、キッタリーの儀式に参加するマシューが、久しく儀式をやっていなかったと言うキッタリーを訝しんでみる場面で、机の上に立てられた蝋燭の足元を見ると、そこには繰り返し動かした形跡が確認される。キッタリーは懲りずに今でも儀式を続けていたのである。不信感が募るが、すでに儀式はスタートしてしまっている。この場面もドキリとした。ピラネージとはあくまでも「もうひとり」から与えられた名で、由来は実在の建築家である。彼は18世紀のイタリアでローマの古代遺跡を細密に描いたことで知られる。あくまでわたしの感覚では、建築は、生身を見るよりも、その表現を見る方が正しく魅力を感じる。表紙画は、モンス・デジデリオ『冥界の風景』で、なんたる偶然か、塚本邦雄の新著『紺青の別れ』の表紙も同一の絵画である。こちらでも男が狂気の世界へと誘われるそうで、即購入。また日本におけるピラネージ研究として忘れてはいけない高山宏氏の『カステロフィリア』、こちらも高値だが、即購入。メアリー・カラザ-ス『記憶術と書物』、こちらも理性以前の思考、理性前の記憶を探れそうで気になる。購入。関連でイエイツ『記憶術』。購入購入~。てかイエイツて、『薔薇十字の覚醒』の人やんか。これはあついで~。