夜!

a1. 『ハードコアの夜』(ポール・シュレイダー

a2. 『ジャグラー/ニューヨーク25時』(ロバート・バトラー

 

 

・「スナッフフィルム」ものではラリー・コーエンの『スペシャル・エフェクト』がたいへん気になる。またフランケンハイマーも手を出しているようで、『デス・ポイント/非常の罠』も面白そう、『テシス/次に私が殺される』も見たい。漫画『BLACK LAGOON』も読んでみようかな。

・今日見た映画2本は期せずして1979年の映画かつコロンビア製作で、共にテレクラ×ヌードショーで全く会話が通じず主人公が激怒する場面がある。あ、当たり前だが両方とも娘が攫われるんだった。かたやサウスブロンクス、かたやカストロ地区で東と西だが、これが時代の空気だったわけだ。

 

 

a1.

敬虔なカルヴァン教徒の父親(ジョージ・C・スコット)が失踪した娘を捜索している内に、ブルーフィルムに出演していたことが発覚。生業とする者にあたるも手がかりを得ることはできず、父親自らポルノ道に踏み込んでいく。見せ場はセックスとは無縁の敬虔な信徒が性産業に乗り出す所なのだが、「信仰の迷い」というよりはより信仰心を厚くしていく。どこまで行こうが彼には「映画も何もかも興味が無い」と喝破。無理矢理出演を強要されることもなく、『第七の犠牲者』のような地獄巡り感もない、緩く進んでいくのだった。ニューヨークではなく、ラスヴェガスでもなく、サンフランシスコの場末であることも緩い雰囲気作りに大きく起因している。売春宿で働く者たちもだらだらと暮らしている、が故にスコットとは絶対に相容れない所がある。大きく映画のテンションが変わるのは「ラタン」という男の登場からで、それに合わせて娘がブルーフィルムだけではなくスナッフフィルムに出演していた(予定している)可能性が浮上する。以前雇っていた私立探偵も忠告をしにわざわざやって来るのだが、ブルー/スナッフの間には大きな溝がある。プールの脇で「えらいところに来ちまったな、あんた」と口にする場面は見応えがあった。ただやはり、いよいよラタンに近づくにつれて話が矮小化してしまうのは確かで、本作におけるスナッフフィルムの解釈が好みではない。性的欲望とはかけ離れて「金のため」だけに人を殺して回るやつがいて、そのフィルムが流通していること、つまりその中心のない空虚さこそが恐ろしいのであって、どうも中心人物らしい輩を出しては意味がない。解釈だけ言えば、まだ『フッテージ』の方がうまく出来ていた。そうは言っても、殴り込みをかける場面の迫力は凄まじく『タクシードライバー』にも劣らない。ロケーションとして大胆に坂を使った取っ組み合いも良ければ、SM小屋の薄い壁を幾枚もぶち破りながらの追っかけ合いもかなり良かった。あのような腑抜けたエンディングは辞めて欲しかった。もっと異様な映画だと期待していたのだが、いたって普通…肝心の映画内映像場面も弱く、「映画なんか興味も無い」男だからこそあそこまで退屈な場面になってしまったのでしょうね。

 

a2.

傑作!『タービュランス』も素晴らしかったロバート・バトラーはアッパーの狂人を描かせたら天才的な旨さ。公開は80年だが映像のタッチはどう見ても70年代のそれで、撮影のヴィクター・ケンパーは『狼たちの午後』や『ハズバンズ』の人。プロットはまとめようにもかなり多方面に発散しているため中々難しい。誘拐した娘が令嬢でも何でもなく似たような格好をした貧乏人の娘だった、という勘違いからチェイスが始まるところからして「ボタンのかけ違い」がどんな場面でも存在している。そのかけ違いが原因で刑事は街中で主人公に向かって発砲までしてしまう。かけ違えているにも関わらず猪突猛進するキャラクターたちを見ていると『ダーティハリー』のサソリなんかを思い出してしまいますが、異様なものが現代都市にふと現れ出てしまった感覚に襲われる。思えば冒頭から彼は地上ではなく地下の方が走りやすそうに見えるし、それに対応するかのようにネズミの存在も示唆されていたのだった。地下に潜むものがふとした瞬間に地上に顔を見せる、この居心地の悪い感覚は全く古びていない。狂人には、多少の同情の余地も残されている。

チェイスの面白さは言わずもがなでしょう。ときどき初対面の協力者が現われるところなんかが面白い。タクシー運転手の話の早さは全映画が見習うべきである。