合言葉は「レンフィルム」

a1. 『トルペド航空隊』(セミョーン・アラノヴィッチ)

a2. 『囚われの女』(シャンタル・アケルマン

a3. 『クローンウォーズ/S3』#5-7

 

 

a1.

1992年、レンフィルム映画祭にて公開され、場内が騒然となった一作。蓮實重彦により「ロシアのサミュエルフラーとも言うべき孤高の活劇派」と紹介されているアラノヴィッチは、元々航空隊の一員であり、その後映画監督に転身した。平然とモノクロとカラーが混在する、そこに何ら意味は介在せず、あるのは編集の的確さでしょう。機体の内側と外側、撮影パートと記録映像パートとがつながれ、あくまでも金銭的な制約を受けての選択なのかと思いきや、突如頭上をメッサーシュミット?が襲う場面では明らかに、実際に戦闘機を飛ばしている(ぐるんと一回転するカメラワークが印象的)。かと思えば、最後にイリューシンが燃えて墜落する場面ではミニチュア撮影を試みているし、エンジンから発火したイリューシンがドイツ軍艦隊に突っ込む素材は、モノクロではなくカラーなのだが、これがどうも素材には見えないし、ミニチュアにも見えない。「戦争映画」とは一体何なのだ。今後も考え続けたい。一点、本作がまるで戦意高揚映画、のように捉えられている節があるが、そのような見方には真っ向からノーを突きつけたい。イリューシンが離陸する場面での、まさにその飛び立つ瞬間をそぎ落とした編集。気付けば大地を見下ろしており、まるで魂だけが遊離してしまったかのような感覚は、並の戦争映画ではない。

 

参考までに。『トルペド航空隊』での劇映画のパートでは、たしかにここで言われているような伝統的なソビエト映画の作り方によって切り取られた感覚がある。ただ、いざイリューシンが飛び立ち、ほんものの記録映像とミニチュア撮影とが、カラーとモノクロとが入り乱れるとき、果たしてそれは「芸術的記録映画」なのだろうか。そこでは、「芸術的記録映画」と「記録映像」とが衝突している。

 

a2.

ラフマニノフ「死の島」が繰り返し、何度も流される(このようなクラシック音楽の用い方で好みな作品は『日本の夜と霧』での「革命 第一楽章」)。絵画に描かれる小舟のイメージがラストカットに影響を与えたのか。最後に溺れた女を泳いで助けに行く場面も相当暗いのだが、同じように森の中もまた暗い。車窓から見える森が流れていくカットなど、何が映っているのやら全く分からない。部屋の中もまた暗く、家政婦に「ブラインドは上げないでくれ」と頼む場面もある。この、全編に亘る、暗さへのこだわりは何なのか。そんな中、浮き立って見える場面が二つあり、一つは森の中で商売をする娼婦たちが車のライトで一人一人照らし出される場面。もう一つは彼女とアパートの向かいに住む住人とが二重唱を奏でる場面。どちらも女にスポットライトが当てられ、女だけの世界に迷い込んでしまった、それを見る男は暗闇に潜む、という構図が見られる。そのような構図には、たしかに「囚われた女」というタイトルが示すように、男からのまなざしに幽閉される女、といった意味合いを感じ取れそうなものだが、実際に映画を見ると、反対に彼女たちはまなざしを気にせずに自由に振る舞っているように見える。そして、男の方が囚われているのではないか?と疑問を抱かざるを得ない。そのような疑問を投げかけるためには、『囚われた女』は映画でなければいけなかった。一点、最後小舟に女の死体は確認できなかった。

a3.

#5. マンダロア回。食中毒を起こす。

#6. マンダロア回。闇取引に首相自らが参戦。

#7. ズィロに雇われたオーラ・シングがパドメの命を狙う。中々に面白い回でした。アナキンも悩まされた「幻視」という機能がフォースに追加され、師匠とは違い、アソーカは上手く使いこなす。