回顧的アイロニー

a1. 『がんばれかめさん』(ロラン・ブイコフ)

a2. 『処刑の丘』(ラリーサ・シェピチコ)

 

 

登場人物による、意図せぬ台詞の反復がもたらす効果について、頭を悩ます作品に出会う。その反復がもつある種のアイロニーは、悲劇的な(伝統的な)アイロニーではなく、幾分回顧的な性質を持つアイロニーなのだ。つまり、観客に求めるべきものを想像させるのではなく、その来たるべきものが来たときに、ちょうど木霊のもつ効果のように、それ以前に述べられたある台詞を思い出させる。だからこそ、「未来から見つめているような」、などという表現が出てくるのではないか。映画では、得てして、俳優の「たった一言」によって作品世界の磁場が一変し、依って立っていたはずの地盤が揺らいでしまう瞬間が起こってしまうことがある。陳腐な言い方をすれば、芝居なのか、本当なのか。または、木霊なのか、肉声なのか。このように観客の瞳を二重化させることさえ出来れば、映画の勝利は近い。「さえ出来れば」と言うのは、実際どっちかなんてどうでもいいことだから。

 

 

a1.

戦車に轢かれそうになる亀を巡って、子供が全力疾走でそれを食い止め何とかレスキュー。走る走る走る子供を追うカメラワークも凄ければ、行く手を阻む向かい風も豪快に吹き荒ぶ。あまりに自由すぎる、授業中とは思えない光景も魅力的に見える。それはひとえに子供たちの顔でしょう。亀=戦車や、男性器、といった安易なメタファーに思われたが、そんなものは後半になると取っ払われ、ひとつの小さな命である、と主張してしまうところに本作最大の美点があり、そんな亀を踏みつけないように戦車は躱すし、誤って古紙と一緒に燃やされそうになる亀をがんばって、皆で協力して消火する。その場面のスラップスティックな面白さもさることながら、女の子たちが終始パンツもろ出しで駆け回る姿には元気が出た。鋭い観察眼によって撮られた、紛う事なき傑作。

a2.

エレム・クリモフの奥様らしい、というか、しっかりクリモフはシェピチコの作風を受け継いでいたのだな、と納得させられる素晴らしい出来。戦争映画、とは戦争を描いた映画、と定義できそうなものであるが、実際の所どうなのだろうか。何を媒介として戦争を語るか、という点で戦争映画は分類される。本作は、やつれた顔を通して戦争を語る。その点こそ、クリモフが『炎628』で継承しているのだ。顔の映画だからこそ、顔の寄り→目線カット→再び寄り、というカット割りによりシークエンスが構成される。橇に乗せられ、収容所へと運ばれていく際に見られる一連の、顔と、風景の移り変わりを示す目線カットとを交互につないだシークエンスは白眉だ。また『炎628』との共通点として、時間の逆行が見られる。冒頭の、風景を写したカットをつないだものを、最後には全く逆の順序で再配列し直す。これにより、収容所というものが時空を超えた存在であることが示唆される。脱走したからといって、解放されたからといって、決して収容所の記憶は消えることはないのだ。彼は収容所内の記憶に幽閉されている。そしてその刻印が、しっかりと顔に現われてしまうのだ。