【書籍時評】『縁食論』

縁食論 (藤原辰史 , 2020)

 

 

京都大学大学院総合人間学准教授・藤原辰史先生の最新のご著書『縁食論』を読んだ。

『縁食論』(ミシマ社)

 

 

ナチスのキッチン』『カブラの冬』という魅力的な本の存在は以前から知っており、読みたいなと思っていたのだが、なんとこちらも藤原先生のご著書だ。前者はナチス時代のドイツと現代の食糧事情とを比較検討し考察する試み、後者は第一次世界大戦後のひどい飢饉状態のドイツがいかにしてナチ体制の国家へと移っていったかを論じている。どちらも「食」をキーワードとして個別具体的な事例を論じていることから、(ここからは想像だが)本著『縁食論』はそんな二作に通底する著者の「食」の思想を綴った著作であるのだろう。

 

 

「縁食」とは何か。それはまず「複数の人間がいるから孤食ではない」。ただし「食べる場所にいる複数の人間が共同体意識を醸し出す効能をそれほど期待されていないから、共食でもない」第三の食のあり方だ。そしてそんな縁食には「力みのとれた艶やかさが存在する」。ここで「第三の」と形容したが、実はこの縁食という食の形を我々は古くから実践している。引き合いに出されるのはネーミングの由来ともなった「縁側」である。縁側は家の内/外の境界に位置するバッファーゾーンである。そのため外部の人間を迎えることもしばしばあり、玄関ほどの仰々しさがないので迎えられる側も気兼ねなく居座りコミュニケーションを育むことが出来る。そんな縁側空間は時と場合によって様々な機能を持つ。夏場はそこに食材を並べてBBQを楽しむし、冬には餅つきに活用される。昼間にはそこで寝ころがるもよし。外から虫が入ってくる事もあり、人と虫の交流の場にもなり得る空間が縁側である(アパートという外とのバッファーが存在しない排他的な空間では、部屋で虫を見つけるだけでギャッと声を上げ叩き潰してしまう)。

 

このような多目的な空間(言葉を返せば、弱目的性)を都市に置き換えるとどうなるだろうか。著者はそこで公衆食堂やパブ・居酒屋の歴史を引き合いに論じる。

 

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このような公衆食堂や居酒屋では人と人が緩やかなつながりを持っていた、と著者は述べる。そこでは食をただ安く提供するだけではなく、新聞が置いてあったり活動写真が見れたり、かつては外科手術も行っていたりと(!)、文化複合施設として機能していたというのだ。今、文化複合施設と言って頭に浮かぶのは例えばモール。ただ、それは大きな囲いに数多くのテナントが入っているだけに過ぎず、テナント同士の結びつきは希薄である。またフードコートに行けば、収容所的な寒々しい光景が目に入る。目に付く全てに値札が貼られているように感じられるし、あまつさえ歩行者の頭上には残金のメータが薄らと見えなくもない。モールでは「食」が「商品」と化してしまっている現実を恥じらいなく見せびらかしている。そんな空間で果たして緩やかな、居心地のよい繋がりなど生まれうるだろうか。

 

 

また著者はオルデンバーグが提唱する「サードプレイス」という考え方にも疑義を呈する。サードプレイスとは「自宅やオフィス、学校とは異なる第3の居場所のこと。 義務や必要性に縛られず、心のままに自分らしい時間を過ごせる場所で」あるそうだが、このような空間がナルシシズム的な同質圧力に塗れた空間に変容してしまう様を、我々は現実社会で何度も見てきているだろう。まるで「サードプレイス」に加入するためのイニシエーションを求められているような気にさえなる。

 

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著者はそんなサードプレイスの問題を、縁食的視点から斬る。縁食的サードプレイスとは「とりあえず食べ物にありつける」場所であるのだ。サードプレイスの装いをしながら、内実は商品や値札を押しつけてくる場所では、安価で食べ物にありつけたりはしない。そこでは「食べること」が最低限のルールであり、そこから派生して隣に座る人と会話をしてもいいし、しなくても落ち着く空間である。

 

また「もれる」という言葉から想像力をはばたかせる論も大変面白い。ここでは安藤昌益の思想や、『土と内臓』などが引き合いに出される。

 

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ぜひ。