【旧作書評】『ハリウッド映画史講義/翳りの歴史のために』

『ハリウッド映画史講義/翳りの歴史のために』 (蓮實重彦 , 1993)

 

 

蓮實重彦『ハリウッド映画史講義』を読む。「絢爛豪華なハリウッド」をノスタルジックに懐かしむのではなく、副題が示す通り、豪奢なハリウッドの翳りの時代にデビューし監督人生を通してアメリカ合衆国と戦い映画を擁護し続けたアルドルッチに代表される「ハリウッド」五〇年代作家を、彼らをも懐かしむのではなく、また持ち上げすぎるのでもなく、あくまで「現代性」として、現代のアメリカ映画を内側から照射するものとして捉えようという試みの書である。いくつかの歴史的事例が「~となるだろう」という推定の語尾で終わるのはそのためである。

蓮實重彦『ハリウッド映画史講義』

 

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「翳りの歴史のために」「絢爛豪華を遠く離れて」「神話都市の廃墟で」と題された三章ではそれぞれ、「五〇年代作家がデビューするまでの歴史的背景」「映画の興行形態が生み出した「B級映画」を巡って」「ハリウッド撮影所システムの崩壊」についてが語られる。以下、自身のメモ書きと化してきたブログなので、印象的に思えた箇所を挙げてゆく。

 

 

ヒトラによるポーランド侵攻のニュースがアメリカに届いた際、ルビッチが会長を務める「ヨーロッパ映画基金」によってユダヤ系の映画人たちが多数アメリカに亡命してくる。中にはロバートシオドマクやダグラスサークなど。その後1941年になってクルトワイルと共に理論的・実践的前衛ブレヒトがやってくると、いよいよ西海岸はヨーロッパ知識人の街と化してくる。

ブレヒトが直接ハリウッド映画に何某かを寄与した痕跡はないが、彼の影響はラング『死刑執行人もまた死す』(音楽を担当するのはハンスアイスラー)やディタ-レ『シンコペーション』(元のタイトルは『ジャズの歴史』だが、不本意な書き換えが行われた)、未完に終わったウェルズ『ガリレオ・ガリレイの生涯』。『ガリレオ』は1948年にロージーによって舞台演出がなされている(ちなみにウェルズに撮らせようと画策したのはロージーその人である)。殊映画について言えば、ブレヒトの意図がどれも正しく反映されたとは言い難いのは、ラングやディターレがすでにハリウッド的な映画、すなわちアメリカ合衆国と妥協する手段を心得ていたことを示している。赤狩りの時代の公聴会にて、最初に召喚されたのは作曲家ハンスアイスラーであったことは、やはりこのヨーロッパ知識人たちが後に標的となることは明らかである。

ドイツ系活躍のきっかけとなったのはマックス・ラインハルトによる戯曲『真夏の夜の夢』カリフォルニア公演だが、その舞台の演出を手がけたのがまさにディタ-レであり、もう一人の弟子・オットープレミンジャーも今か今かと活躍の時を待っている。

 

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次に1947年と、その年の一月一日付でRKOの重役となったドーリシャーリが重要人物として紹介される。シャーリは47年の『子鹿物語』のヒットにヒントを得て?若きロージーに『緑色の髪の少年』の監督を任命する。続いてシャーリはジョンハウズマンの紹介によって知り合った若きニコラスレイに『夜の人々』を撮らせ、更にはドミトリクに『十字砲火』を撮らせることに成功する。翌年のアカデミー賞監督賞が『黄金』のヒューストンであることからも、新人の時代へと移行してきていることは明らかで、シャーリの嗅覚の鋭さが窺える。MGMへと戻った53年には若きアルドルッチに『ザ・ビッグリーガー』を監督させ、デビューを飾る。また蓮實はRKOを指して、RKOヌーヴェルヴァーグと呼称しているが、フランスヌーヴェルヴァーグが受け継いだ精神性とはこのシャーリの精神に他ならないこともここで指摘する。

メジャー系製作会社崩壊の兆しが見え始める1951年、大作主義に拘るMGMのルイスBメイヤーはシャーリと揉め、会社を去る。独立後のメイヤーはTVとシネラマというアトラクション的装置に乗り出すことになり、ここにハリウッドの二極化の端緒を見ることが出来る。

 

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またハリウッドに陰鬱さを最初に提供し、のちの五〇年代を予告した作品としてダグラスサーク『ショックプルーフ』が挙げられる。この作品は脚本を若きサミュエルフラーが担当しており、ここでのフラーとサークの結びつきは無視してはならない。

 

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1952-54年、赤狩り軍国主義的な風潮に疑義を呈する映画が三本公開され、どれも重要作である。ジンネマン『真昼の決闘』(企画にはロージーも携わっている)・ヒューストン『勇者の赤いバッヂ』・レイ『大砂塵』(脚本がフィリップヨーダン)である。見ないといけない。

 

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五〇年代のエリアカザンの映画の多くはNYのスタジオで撮影されていることは、ハリウッド撮影所システムの衰退を示している。ただカザン『波止場』では撮影にロシア亡命人ボリスカウフマンが参加している。カウフマンはジャンヴィゴ作品のカメラを担当するなどしている人。

 

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疲れたからひとまず、ここまで。後に追記してゆきます。忘れないように、ほとんど自分のメモ帳です。