【書籍時評】『ショットとは何か』

ショットとは何か (蓮實重彦 , 2022)

 

 

蓮實重彦の新著『ショットとは何か』を読みました。

蓮實重彦『ショットとは何か』

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雑誌「群像」2020年5月号より連載が始まり、この度それらをまとめて無事に書籍化。聞き手である三枝亮介が蓮實重彦へ、彼の映画論で特権的概念である「ショット」とは何かを尋ねる。蓮實の口からは既存の映画作品を引き合いに暫定的なショット概念が語られるが、決して結論づけはしない所が、例えば本文中で、西欧中心主義的な映画理論であると批判的に読まれるジル・ドゥルーズ『シネマ Ⅰ・Ⅱ』の、表象=代行的な映画理論に陥っていない。蓮實は、潔く「厳密には、映画に最小単位など無い」「すべての映画を見ていないため、「映画」を包摂する映画理論など語れない」と口にしている。また、エジソン的回帰が続く昨今の映画鑑賞態度によって生まれる映画の美術問題等、いくつかの問題が保留されてもいる。

 

 

表紙絵はドン・シーゲル殺し屋ネルソン』の場面写真である。大学時代に今作を見た蓮實は積極的に擁護するも、周りは聞く耳を持たない。また当時の評論家・双葉十三郎なども評価することはしない。悶々としていた蓮實は、そのとき感じた憤りが自身の映画評論家としての活動の原点だと言う(同様にニコラス・レイ『大砂塵』を見たときに感じた「全く新しい映画」という印象も、彼を映画評論の道へと進ませた)。『殺し屋ネルソン』や『大砂塵』など蓮實が重要視する「五〇年代アメリカ映画」については、氏の『ハリウッド映画史講義』に詳しい。三〇年代のアメリカ映画とは何が違ったのか、そして、五〇年代作家の不幸な映画との関わりについてが主に語られている。

 

蓮實が、「ショット」とやらに意識的にならざるを得ない体験を強いたのは、例えば小津安二郎映画を見たとき、「映像が、一般に考えられている物語とは別の次元の目に見えない「物語」を紡いでいる」と目で感じたときだった。「映っていること」と「語られていること」は異なっているのではないか。このような直感が基になって後に『監督 小津安二郎』に行き着くことになる。小津の映画と言えば、一般的に「180度の規則」を冒すカット割のイメージが強いが、蓮實はここで、ジョン・フォードの『アイアンホース』等の映画を引き合いに出し、小津の映像は規則を冒した違法な映画なのではなく、規則に則っとらない形であっても十分に視線は表現出来ることを示す。映画を習い始めると誰もが最初に覚える規則であるのだが、これは言うならば「慣行」に過ぎず、絶対的な規則 rule ではないのである。ここでは、「ショット」と「技法」の問題が語られている。小津の映画から看取できる「ショット」が、単に技法の問題に帰着出来はしないことは、『監督~』を読了した者には当たり前の事実であろう。

 

「180度の規則」の他に特権化されている「技法」としては、「ワンシーン・ワンショット」がある。これは元を辿ればアンドレ・バザンによる指摘に端を発する映画理論なのだが、これも映像が「ショット」たり得る条件ではないのである。ここではマックス・オフュルスたそがれの女心』中での長いワンショットとグル・ダット『渇き』中での速いカッティングによって生まれた場面とが比較され、『たそがれの女心』は長さ故にショットなのではないことを論じている。また、当時弱冠22歳のゴダールによるバザン批判の文章でも、決してショットは長さなのではないことが語られている。ワンシーンがワンショットで語られ、そのショットの長さに吃驚する者は、つまり巧みな編集に驚くのである。

 

ゴダールは歴史的な低興行収入をたたき出した『カラビニエ』には、明確な「つなぎ間違い」があるという。それは、兵士によってパルチザンの女性が被る帽子が脱がされるカットのことで、そこでは、「カッティング・オン・アクション」の「規則」を侵犯するような、アクションとアクションとが重なり合うようなつなぎがなされている。それによって、パルチザンの女性が帽子の下に隠し持つ美しい金髪が垂れ下がるという仕種が際立たせられているのだが、ここでゴダールは、「エイゼンシュテイン的なつなぎにかこつけて、グリフィスのモンタージュを語っている」。またストローブの言葉を引用しながら、「映画史におけるグリフィスの軽視」を軸に、ショットはいつ生まれたのかを語ってゆく。ここでも、一般的に映画研究を志す者が、あたかも物語映画の起源として持ち出しがちなエイゼンシュテインではなく、グリフィスを取り上げる辺りが非常に面白い。映画が、反復と差異によって、別次元の見えない物語を紡ぎ出したのはグリフィスからなのである。蓮實曰く、ショットとは(また映画とは)、穏やかでありながら同時に厳しいものなのだ。決して厳格な構図に収まっていることがショットたり得る条件ではないのである。ただ、そういう慎み深いカットは、誰もが見ていながら、その魅力を指摘しづらいものである。映画的な素養のある/なしがそこでは問われているからだ(「映画的な素養」を考えていく上で、アンリ・ラングロワの存在は欠かせない)。

 

 

 

分かったような、分からないような、著者自らが「あくまで暫定的」と述べていることもあってか、「ショットとは何か」を完全に把捉できたとは言い難い。例えば蓮實は、「映画と水」の親和性の高さをリュミエール兄弟による映画に「水」や「海」、「舟」といったキーワードが散見されることから、論じているのだが、この部分は、自分の映画を見るときのテーマでもあり、もっと深く理論的に詰めて欲しくはあった。「映画的な被写体」は必ずや存在するし、それと「ショット」との関わり合いが気になる。一応蓮實は「水」から「流れること」という主題を引っ張りだてくるのだが、いかんせんそれでは弱い。映像が、通常の物語から逸脱し始める感覚を呼び込みやすい、その代表的な例が「水」であるとは思う。その時の、物語から離れて水の映像そのものを見入ってしまうような感覚を言い当てる言葉は無いだろうか。これはこれからの自分の課題です。