後頭部を映すと画面は緊張する

a1. 『BEGINNING』(デア・クルムベガスヴィリ)

 

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ファーストカットを見たときには大いに期待した。わずかに中心線がずれた構図によって、違和感と不安が醸成される。するとそこに突然、画面外から火炎瓶が投げ込まれる。東部戦線映画の記憶をくすぐられつつ、見ている間中、王国会館に囚われたままでいる人々と、微動だにしないフレームの中に収まる人物とがリンクし、常に息苦しく、閉塞的である。閉塞的ということは、画面の外に意識が向いてしまうということでもあり、実際、刑事を装う謎の男は画面の外から不意に現われ、女に暴行を振るう。レイプされた女が実家に帰ると、母親に「外には男がいるのよ」と注意を促されるのはまさに言い得て妙の素晴らしい台詞。画面の外には男が潜んでいる。そんな彼女が家に帰り眠っていると、1週間近く家を空けていた夫が帰宅し早々ベッドに忍び込んでくる。このフレームインの仕方がいやに不快。フレーム内に幽閉され続ける女が唯一檻を飛び出すのは、オフィーリアよろしく一人で死んだふりをするとき。あまりにも長すぎる死の偽装を退屈に感じていると不意に光が差し込む瞬間には思わず、いいねえと呟いた。私はあのまま、世界で彼女たった一人だけ取り残されてしまうのではないかとわくわく妄想していたのだが、残念ながらそうはならず、次のカットでは死んだふりをし続ける母を見つめる息子を映す。「死んだと思ったでしょ?」と冗談まじりに種明かしをする女。そんな女は最後に家で再び、「さっき息子を殺したわ」と今度は笑えない冗談を言うのだが、厳密なフレームのせいで画面外が全く映されないため、真偽は確認できない。あのスムージーには本当に毒が盛られていたのかもしれない。オフィーリアと狂気はセットで考えるべきものであり、ならばこの場面も頷ける。真偽はさして重要ではなく、狂気はそのあわいにあるのであって、如何にそれを俳優の肉体をもって体現しうるかに勝負はかかっている。ここに来てようやく、彼女が元々女優であったという設定に意味が与えられることになるのだ。その冗談を真に受けてしまった旦那が息子の様子を確認しに行くと、女はカメラに対して背を、後頭部を向け、中心にじっと居座り、呪う。すると呪いがフレームから脱げだし、遠く離れた肥沃な草原にいる謎の男を枯れた大地に幽閉してしまう。この「後頭部」と「呪い」の関係は『ゴーン・ガール』にも見出すことが出来る。さらに根源を突き詰めれば『オーメン』もこれに当たる。これは新たな発見かもしれない、後頭部を映すと画面は緊張するのだ。いや、しなければならない。俳優の後頭部を映すことはそれくらいの覚悟が必要なのである。

『ジャンヌ・ディエルマン』からの影響関係を指摘されがちだが、一体何をもってそう言えるか。たとえば「水」。この映画における水はタルコフスキーのそれに宿る神秘的なニュアンスは驚くほどなく、また『メトロポリス』における大洪水のように、物象に迫っているわけでもない。風呂のお湯と大差ない撮り方しかされておらず、全く美しくない。このような「美しくなさ」は非常に『ジャンヌ・ディエルマン』的だと言える。一方、肝心の台所場面に関しては、一度目はまるで避難するかのように、二度目は毒の生成を連想させるものであって、これは果たして『ジャンヌ・ディエルマン』的だと言えるのか。