左右の境界が融け合う思考実験『闇の左手』

The Left Hand Of Darkness  (Ursula K. Le Guin , 1969 )

 

アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』を読んだ。

ル・グィン『闇の左手』


日本では、ル・グィンと短縮されて表記されることの多い作家なのだが、私はこの方の著作物を読むのが初めてで、もちろん名前を知ってはいましたが特にこれまで強く意識することもなく生きてきたため、てっきり男性作家だとばかり勘違いしていた。だって、ル・カレとか、ル=ゴフとかに似てるんだもの。気難しそうな男流作家を想像していたら驚いた。Ursulaとは何とも美しい名前である。アルドルッチ『テキサスの4人』や『007/ドクター・ノオ』のボンドガールとして著名なウルスラ・アンドレス Ursula Andressという女優がいるが、同じ綴りだ。戯言だが、ウルザナ Urzanaというインディアンのキャラクターが西部劇には存在し、その名前をも若干連想させるウルスラは、どこか未開世界の香り漂う、いや本当に美しい名前だと思う。閑話休題。でもないか、始まってすらいない。

 

闇の「左手」というから、表紙に黒人の左手をあしらった版が散見されるが、ひどいデザインである。上で掲げた表紙は、中国思想における「陰陽」がモチーフとなっており、文中で直接陰陽に言及されることはないが、重要であるのは「左」であることではなく、わざわざ「左」と「右」という概念を持ち込むことで覆い隠そうとしている世界の、右も左も無いカオスな実相を表現することが、本著の主題である。そこからル・グィンは、「両性具有」という題材を見つけ出す。『オーランド』における両性具有は、主人公・オーランドと時代精神との力関係の中で突発的に生じてしまった、ある意味、症状であるが、『闇の左手』においては、住人が皆、両性具有である惑星<ゲセン>という異界として立ち現れる。そのゲセンが宇宙間連合<エクーメン>と同盟関係を結ぶまでが大まかな粗筋になるが、当然中々上手くはいかない。ことをそう単純に進ませない要因の一つに、「シフグレソル」という概念が導入される。これはゲセン人、特にカルハイド王国に特有の気質なのだが、地球語に翻訳するならば「恐怖に対し過敏な反応を示す自尊心」とでも言えるだろうか。

「畏怖」とはまた異なり、「恐怖」であることが重要か。シフグレソルがなんたるかを、逆説的な形で、しかし的確にあぶり出してしまう一言がある。ゲセンにはハンダラ教という宗教があり、彼らの「とりで」を、主人公・ゲンリ-アイが訪ねてゆく場面があるのだが、そこで出会うファクスという聖人(=織り人)はシフグレソルとは無縁の人物であり、純粋な眼で他者に問いかけたりする。ゲンリーアイはその純真さに怖じ気づいてしまう瞬間があるのだが、その時ファクスは優しく「ヌスス」と笑う。この「ヌスス」という笑いを、シフグレソルを抱く者は持たないはずだ。彼らに似合う笑い方とは何だろうか、「ぐぎぎ」とかかもしれない。

アイは「とりで」において、ファクスより、本作の主題に関わる重要な教示を受ける。「とりで」では予知を行うのだが、その際に、如何なる問を立てるか、という点はその答えを得るよりも遥かに難しいというのだ。二元論的な思考(たとえば「愛すること」と「憎むこと」の間に境界線を設けてしまうような)に支配されていては、たちまち問そのものが崩壊してしまう。このアイデアは、作品終盤でもアイとエストラーベンの関係性の推移を表現する決定的な場面でも再度登場する。どこか、『銀河ヒッチハイクガイド』を思わせる。

 

オルゴレインからカルハイドへと帰還する際、あえて、物語としての盛り上がりに欠ける(と思われる)方を選択するところが素晴らしい。サルフという秘密警察の手を何とかかいくぐるか、大自然を相手に耐え忍ぶかを選ぶときに、やはり私としては前者を見たい。凡庸な私が想像する限りでは、そちらの方が面白くなるに決まっている。しかし、本作はそこで後者を選択し、アイとエストラーベンを豪雪の中で生き延びさせる。拍子抜けしそうなものだが、なんと、作品中1/3を占めるこのパートが最も魅力的な筆致に溢れ、文句なしに素晴らしいのだ。ル・グィンは、本作の執筆に取りかかる際、まず脳内に浮かんだのが、「二人が雪山で、協力し合いながら橇かなにかを引っ張っている様子」だったそうだ。何か原型的な、根源的な、想像力の翼がそこから縦横無尽に羽ばたいていきそうな光景である。根底には、このようなビジョンがあったのだ。なお、そのビジョンと「アメリカ的想像力」との関連を論じている興味深い論文がこちら。

 

https://opac1.lib.ehime-u.ac.jp/iyokan/AN10579404_2001_10-a137._?key=BSBZVJ

 

 

 

ゲセンにおける時間表記は、地球時間とはまるで異なる。詳しくは書き記さないが(というのも親切に解説が加えられているから)、彼らは、時代を「現在」を基準に表わす。Before ChristやAfter Deathてな基準を設けているわけでは無く、「現在」から一年前とか、五年後、とかいう風に表記する。そのような時間を生きるゲセン人の世界観とは如何なるものなのだろうか。おそらくは、我々が、前と後ろがある一本のトンネルのように時間を認識しているのに対し、ゲセン人にとって時間とは、不断の「現在」が永遠に続くものであり、最小単位が存在しないものなのではないか。私の感覚からすると、よく発狂せずに生き抜いているものだ。何か特殊なクスリでも処方されているのだろうか。それとも周期的に訪れるケメル期、という生理的特質によって何とか成り立っているのだろうか。ただ、不断の「現在」が永遠に、と言えば、それは過去と未来をも同時に生きていることに他ならない。だからこそ予知能力という設定が持ち込まれるわけで、このような設定は、私の感覚を突き崩す、凄まじい力を持っていた。

また、この作品世界は、必ずしも我らが地球に軸足を置きつつ異界・惑星ゲセンの実態を描写するような小説でもないのである。はじめはおそらエクーメンに置かれていた軸足は、動き、最後にはエクーメンの人々自体が、どこか異界から飛来した宇宙人のように見えてくる辺りが面白いし、その点をもって「文化人類学的」だと評されることが多いのであろう。「文化人類学」には、知識だけではなく、直観が重要であるとゲンリーアイは述べる。オルゴレインで食事をとるアイは、その食事に妙な味気なさと違和感を覚え、それをこまめにノートにメモをとる。うむ、たしかに「文化人類学的」だな。

 

 

と、ここまで書いてきて、今ではフェミニズムSFとして高く評価されている本作の性の在り方の部分に深く触れてこなかったが、私にとってその面白さは、(語彙力がないのでこう表現するしかない自分が情けない)どこか二次的なものなのだ。例えば「両性具有」もしくは「両生類」という設定を大々的に作品世界に持ち込んだ映画『ボーダー』では、私の浅い現状認識を突き崩す、まさしくセンスオブワンダーがあり、本作にも同種の衝撃がある。しかしその衝撃に、決して「フェミニズム」というラベルを貼ることが適切であるとは、私は思わない。もっと根源的な想像力を感じさせる筆致に溢れた作品であると思う。強いて「フェミニズム政策」と言うのなら許容できようか。その衝撃とは、上でも述べたように、足元がぐらつくような、より根源的な何かなのである。