【映画時評】『ドクター・ストレンジ:マルチバースオブマッドネス』

Dr Strange in Multiverse of Madness (Sam Raimi , 2022)

 

 

ドクター・ストレンジマルチバースオブマッドネス』を見ました。

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サムライミ『ドクターストレンジ:マルチバースオブマッドネス』

 

タイトルにStrangeとMadnessが同居しているとは、非常に挑戦的です。奇妙さも狂気も、映画作家が描きたくて仕方がないテーマだと思うのですが、言うは易し行うは難しで、実現は並大抵のものではありませんし、意外と、低予算映画で期せずして生まれてしまうこともあります。フェイズ4に突入してからのMARVELの企画力には目を見張るものがあるなあ、と感心していたのですが、その片鱗はタイトルに既に表れていると言えるでしょう。またマルチバースという、一応フェイズ4においては、『スパイダーマン:ノーウェイホーム』で本格的に実装された設定。幾多もある異次元の世界からMadnessが飛んでくる、と聞けば連想してしまうのは、H.P.Lovecraftでしょう。ジョンカーペンター監督作品で『マウスオブマッドネス』という映画もありましたが、語呂が似ていますね。サムライミ監督自身、『死霊のはらわた』劇中において、ラヴクラフトの小説世界を司る重要アイテム・ネクロノミカンを登場させています。

 

スパイダーマン:ノーウェイホーム』では、マルチバースの負の側面が丁寧に描かれていたかといえば、そうは言えません。一般のタイムリープ映画でもよく言及されるように、時制や空間を、自然の法則に逆らって変更してしまう行為は、反対に現在の世界に対して取り返しのつかない変更を強います。この「取り返しのつかなさ」こそが鍵であり、そこを演出できるか否かが映画の勘所だと思うのですが、『スパイダーマン:ノーウェイホーム』では、肝心の魔術シーンをおちゃらけ場面にしてしまい(のちにそのおちゃらけ具合が重要だったのだ、と気づかされるとはいえ、物語を優先するよりも「取り返しのつかなさ」を優先しろやと思います)、それによってすべてがくだらなく思えます。また、『スパイダーマン:ノーウェイホーム』では、確かに歴代スパイダーマンが一堂に会する場面などでは、マルチバースとMARVELの商業的思惑とが見事に融合しており、素晴らしい発想だと思いましたが、それによって犠牲となるキャラクターが一定数生まれてしまったのも事実でしょう。元はといえば一本の映画を通して描かれてきたキャラクターなのですから、別のバースからやってくる、というアイデア自体、許しがたいものです。また、明確なヴィランが存在せず、別のバースからやってくるヴィランとされる方々もかわいそうな人以上ではないので(これはサムライミスパイダーマンの時からそうです)、物語の推進力が著しく低い、という問題もあります。以上のように、『スパイダーマン:ノーウェイホーム』では3点の問題が顕在化した作品であったと結論づけることができます(その他にも嫌な部分は山ほどあり、本当に出来の悪い映画だと思いますが)。

 

そのような問題をどう克服してくるかが鍵となると踏んでいたのですが、杞憂に終わりました。インカージョンという新たな概念を導入することで、まず、マルチバースの負の側面が強調されています。そしてそれを、「イメージが崩壊した」、とモンテヘルマンに倣い表現したくなるような別次元の世界を登場させたり、第3の目というグロテスクな見た目としてヴィジュアル化することで、視覚的に納得させています。またイルミナティ登場の場面で、そのユニバースでのストレンジが犯してしまった罪が裁かれることも、マルチバースのダークサイドを際立たせているでしょう。また本作においては、アメリチャベスという、不可抗力によりユニバース間を移動させられてしまう女性によって、マルチバースという設定が作品世界に、半ば強引に持ち込まれます。物語では「いかに主人公に構造が迫るか」が重要ですが、そこも難なくクリアしているでしょう。フィクションにおいて、問題は常に外からやってくる。これは娯楽映画の鉄則であると考えます。

一方、犠牲となるキャラクターについては、議論が分かれるところかもしれません。イルミナティの面々は、かませ犬に過ぎず、そのキャラクターの背景を無視しているとの批判は免れ得ないだろうとは思います。しかしヴィラン=ワンダを際立たせるために、殺される要員を配することは重要です。このような丁寧な構成を、これまでのMARVELはして来なかったので、私は非常に感心しました。ジョンクラシンスキ演じるMr.ファンタスティックは扱いとしてはこれまでのファンタスティックと同じで、未だ名誉回復できないのかと残念に思いもしましたが、こちらはまだ「物語に貢献する死」であるのに対し、『スパイダーマン:ノーウェイホーム』ではサンドマンの死にいかほどの効果があったでしょうか。よほど「商業的思惑に毒された死」であると言えます。また、私の思うアメコミ感を見事に表現してくれた場面でもありました。ヘンテコな格好をした大人が、ヘンテコな話をして、揉めて、あまつさえ喧嘩になる。フェイズ4に突入してからのMARVELは、本来のアメコミが持つバカバカしさ=漫画ゆえに成立してきた表現を、何とか映画に置き換えようと苦心しているように思えますが、イルミナティの場面では、そんなバカバカしさに接近しており、私は好感を抱きました。

 

それ以外に、印象的な細部を挙げ連ねると、アメリチャベスを狙ってガルガントスが外宇宙から飛来した際、造形について、特に吸盤と目が強調されていました。タコを模した造形で、吸盤を映すことは並みの監督でもするのですが、意外とああいう無機質な目を抜き出すことはしません。痒い所に手が届きます。

その後、別のユニバースにおけるストレンジが禁断の書を獲得しようと頑張ったが息絶えたことをチャベスから伝えられる際、長々とセリフで説明され、納得させられるよりも、ストレンジの死体一発で納得させてしまう辺りも大変手際が良く、最高です。ここでも「目撃してしまうこと」によって、ストレンジは「アクションを起こす」わけですが、小説とは違い、映画では、「目撃してしまうこと=アクションを起こす」という論理を劇中に通す方が、簡潔かつ説得力があると思います。死体を見せて別ユニバースの存在を証明するというアイデアは見事でした。

ワンダが覚醒?して、ストレンジやその元恋人、チャベスを追いかける展開では、その導入としてガラス片が散らばるタイルの上を素足で歩くワンダの足元のアップを撮っています。また、インカージョンを起こし崩壊寸前のとあるユニバースで、もう一人のストレンジと対面する場面では、廃墟と化した館を前にしたストレンジが上を見上げると窓からチラッと何者かの影が見える、というカットがあります。これまでのMARVELでは疎かにされていたであろう、こういった些細な演出が光り、歴代でも屈指のアクションの質に到達していると思います。なおここでいうアクションとは、アクション映画におけるアクションというよりも、より広汎な意味で捉えていただけると幸いです。

 

 

以上が主な感想です。サムライミはやはり「映像の人」ですから、映像で納得させる手腕に長けた監督ですね。ここまでクロスフェードを多用するMARVEL映画も珍しいのではないでしょうか。また、やはりアナログ気質が抜けきらないのか、ミラー次元に閉じ込められたワンダが鏡に手を当てると水面になっている、という場面で、その水の質感をうまく表現できていると思いました。これはコクトーが元ネタなわけですが、『スパイダーマン』でも30年代の怪奇映画(たとえばピーターローレ主演の『Mad Love』とか)から表現を大胆に引用していますし、サムライミの根底に流れるものを垣間見れて嬉しかったです。