【旧作映画評】『甘い抱擁』

The Killing of Sister George (Robert Aldrich , 1968)

 

 

久しぶりの更新(4日ぶり?)。新作映画・書籍縛りで評を書こうと思っていましたが、さすがに追いつかないので面白かった旧作もちょろちょろと、さくっとレビューしていきます。

 

ロバート・アルドルッチの『甘い抱擁』を見ました。

こちらが予告編。エンディングの濡れ場をがっつりと移している上、スプリットスクリーンを多用した前衛的すぎる予告。当時、本当にこれが劇場で流れていたのだろうか?

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こちらは舞台版の予告編。映画はフランク・マーカスの舞台劇が基になっています。

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1968年にこの題材を選んだというのがまず驚きます。アルドルッチだったり、日本なら増村保造、韓国ならキムギヨン、香港ならジョニートーなどは題材の選び方が優れていますね。これは映画の企画センスがあるということでしょう。アルドルッチは前作『特攻大作戦』が大ヒットしたために、Aldrich & Associates Companyをスタートさせ、より自由で面白い企画を監督しようと試みていたそうです。新進気鋭の評論家・早川由真さんのフライシャー評でもフライシャーの企画センスを正当に評価されていました。映画監督を作家として評価する時に忘れてはいけない視点です。別にコントラバーシャルな作品だから持ち上げるわけではありません。ちなみに『甘い抱擁』について言えば、映画製作の前々年、イギリスではゲイ・レズビアンについてのテレビ番組公開を巡って議論が起こったそうです。議会を通して議論した結果、正式に放映が可決されたそうです。2つの舞台の内、1つがロンドンにあるThe Gateway Clubというレズビアンバー界隈の人々へのインタビュー番組だそうです。そしてこのClubは『甘い抱擁』劇中でも登場します。また映画自体、テレビ界における人気商売が題材となっています。

 

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以前の「ベンリアン」レビューでも言及しましたが、私は「芸術を創造する場における熱狂と、それを冷徹に見る視線」という構図を持つ作品が好きです。そして、その冷徹な視線ありきではじめて正しく舞台裏モノを描くことが出来うると思っています。態度に問題を抱える主人公・ブルックリッジが人気テレビ番組の降板が決まって最後の収録の日。この番組では、人気が無くなると、そのキャラクターは死んで作品世界からフェードアウトする。ブルックリッジ演じるジョージも最終回で死んでしまうのですが、ジョージの死を目の当たりにした人々のリアクションを撮影中、彼女はフレームの外にいるのを良いことに、彼らにちょっかいを出します。カメラの後ろから変顔して笑わせたり口笛を吹いて撮影を中断させたり。この場面は大変素晴らしいです。今は人気が斜陽の大女優・ブルックリッジが「まだ私でも撮影をコントロールすることができる」とプライドを示す場面であり、同時に所詮人気商売でしかない番組の製作を茶化す場面でもあるからです。そしてこの場面は、司令室にいるディレクター用モニター(複数のモニターがあり、スイッチングをしています)に映る、フレームに収められるジョージ/ブルックリッジのふざけた表情を映したカット(画面撮りをしている)で終わります。これにより、そんなブルックリッジの頑張りも空しく、全て決定権はディレクターに委ねられていることが分かります。彼女はどこまでいっても、枠内の人間でしかないのです。

 

降板が決まった彼女に新たな仕事が舞い込んできます。それは子供向けの教育番組で、ウシが主役となりパペットたちとの掛け合いが見所の番組だそうですが、あろうことかそのウシの声を任されることになるのです。プライドを傷つけられ怒ったブルックリッジはオファーを断りますが、最後に恋人も仕事も名声も全てを失ったブルックリッジは一人撮影用セットに佇み「モ~モ~」とウシの鳴き真似をする場面で映画は幕を閉じます。ラストカットは画面よりも小さなフレームに、まるで閉じ込められたかのように見えるように演出されています。

 

 

 

さて、この映画は撮影をジョセフ・バイロックが担当しています。アルドルッチとは長年のコンビで、アルドルッチテイストといえば彼の功績が大きいでしょう。他にもサミュエルフラーやヴェンダース作品でも撮影を担当しています。シャープな陰影が彼の持ち味で、それは今作でも遺憾なく発揮されています。ただ撮影のレベルでなのか、それとも演出のレベルでのなのか定かではありませんが、どうも古臭く見える瞬間があるのです。「古臭い」というのは人口に膾炙した「ソープオペラ」のイメージに映画が染められているということです。同じような体験をニコラスレイ『ビガー・ザン・ライフ 黒の報酬』でもしました。実際にどちらの作品も今から60年ほど前に製作されていますから、製作当時は観客にとってその演出が当たり前に感じられたかもしれません。しかし、どうもアルドルッチにしてもフラーにしても、確信犯的に「ソープオペラ」的なイメージ、もしくは「シットコム」的なイメージを狙っているように思える。それは、「演出によってフレームを感じさせる」ことだと思うのです。観客にフレーム(もしくは距離感)を意識させるため、戦略的にそのようなイメージを用いて作劇をしているのではないかと。それにより観客は、メタ的な映画体験を強いられる。常に「映画とは何か」を自問しながら見続けることになる。

 

映画では得てしてこのような現象が起こりがちですが、意図的に狙って成功している点がすごいと思います。全く作品のことに触れていませんが、これは私の長年のテーマでもあり、覚え書きです。