【書籍時評】『手招く美女』より「ベンリアン」

Benlian (Oliver Onions / 1911)

 

国書刊行会より出版されたOliver Onions著『The Beckoning Fair One』(手招く美女)を読了。東雅夫氏「とれたて!この三冊」でも紹介されているとおり、英国怪奇党にとってOnionsは特別な名前だそうだ。まとまった邦訳はこれまで存在しなかったが、荒俣宏氏編纂の怪奇文学シリーズや、平井呈一『こわい話・気味の悪い話』『恐怖の愉しみ』等にその一篇が収録されたことはあるそう。探してみるとしよう。

 

表題作「手招く美女」。作家志望で芸術家肌のオレロンは小説「ロミリー」の執筆が捗らない。友人であり自身の小説のよき理解者であるベンゴフ嬢には普段からアドバイスをもらっているそうで、今日も新たに書き進めたパートを読み聞かせて欲しいと彼女はねだるが、オレロンは申し出を断り、さらに15章以降全く先に進んでいないことを告白する。そしてどうも主人公・ロミリーの描写に違和感を抱く彼は、全体を再構成してみるのはどうか、とベンゴフ嬢に提案する。しかし、15章までのロミリーに「生き生きとした」魅力を感じていた彼女は考えを改めるように諭す。そして執筆環境を変えてみることを彼に提案するが、オレロンは突っぱねる。彼は引っ越し先に魅入られており、家と精神的なつながりを感じている。15章以前のロミリーや、ベンゴフ嬢以上に強いつながりを(15章までを暖炉で燃やす際、窓際に存在を感じていたベンゴフ嬢は、燃え切ると同時に、不思議と、忽然と姿を消してしまう。オレロンは家いや怪異とのつながりを優先したのだ。非常に魅力的な細部である)。

 

Onionsは、人の芸術活動そのものに興味があるようだ。そして芸術が生まれるその環境と、人間との間の相互作用にも関心がある。人間はせいぜい寿命100年足らずであるが、環境には長い歴史がある。オレロンが、彼が知る由もない「手招く美女」という土着的な歌を無意識に口ずさんでしまう描写は、彼と家との精神的なつながりを表わす指標として機能する。また終盤、抜け殻のように衰弱してしまったオレロンの容姿の異様さは、家の戸棚に隠されたグロテスクなものとして可視化されたりもするのだ。そんなオレロンが現実社会以上につながりを見出してしまう<家>を、Onionsは「信条」中で<特異領域>と命名する。この<特異領域>は「途で出逢う女」では空き地の草むらとして、「幻の船」では一寸先も見えない海上の霧中として描かれる。この領域に足を踏み入れた者と領域との関係は、言うなれば、平衡である。領域の側から人間を滅ぼそうとすることはないし、逆に人も手出しすることはできない。「彩られた顔」の衝撃的なエンディングを思いだそう。人は勝手に滅びるのだ。勝手に。彼女の顔は滑稽に見えもする。傍から見れば、そう見えるでしょう?

 

作家が創造したキャラクターを、作家の内面や経歴と結びつける論にはこれといった面白味を見出すことが出来ないが(むしろその内面や経歴に論が引っ張られてしまう)、前提として踏まえておくべき要素ではあるだろう。Onionsの妻Berta  Ruckについては解説も担当された中島晶也氏のこのツイートが参考になる。また中島氏は別のツイートで平井/南條の邦訳問題について触れる。旧訳では伝わりづらいが、本来ベンゴフ嬢はオールドミスではなく進歩的な女性として描かれているだそうだ。たしかに新訳ではそう読める。さらに、芸術家志望で且つ家計を支えていたBertaの存在。なるほど面白い。

こういった解説文には収まりきらなかった事情をツイートして下さるのは大変有り難く、Twitterが中々辞められない。

 

 

夫妻と映画界との関わりについて。そんなBertaも小説を執筆しており、その数は優に90を超える量。その中から『His Official Fiancee』がアメリカとスウェーデンで二度映画化されている。偽装結婚ものとのこと。Onionsは『手招く美女』が『怪奇な恋の物語』と『The Journey to the Unknown』とこちらも二回映像化。共に1968年の作品で、没後7年後。

没後の影響を見ると、例えばLovecraftは剽窃ともとれる形でOnionsの著作を引き合いに出す。Carl Edward Wagnerは「In the Pines」でオマージュを捧げているそう。このWagner作品は未読なのだが、「現代版マッケン」との評も目立ち、興味が湧いてきた(そういえば吉行淳之介『恐怖対談』中でもマッケンの名が出てくるそうで、こちらも早く読まなければ…)。邦訳作品リストを挙げてくれる便利なサイトがこちら。

 

www.lares.dti.ne.jp

 

と、長々と書き連ねたが、私が最も惹かれたのが中編「ベンリアン」である。これもまた芸術家についての小説である。そして解説でも指摘されているとおり、「手招く美女」におけるオレロンーベンゴフ嬢ー家を結ぶ三角関係と相似形を描く人間模様が見て取れる。ただ、「ベンリアン」中で家に相当する者は、ベンリアンという背が高くつかみ所のない男性だ。青年とベンリアンとの関係は、当初は業務的なもの(ただ「写真を撮って欲しい」だけ)だったが、次第に芸術的な情熱へと移る。そして私の目には、その情熱は恋愛に似た何かへと到達するように思える。デーブリーン『ベルリンアレクサンダー広場』におけるフランツとラインホルトの関係に似たものを。またはジャン・ジュネ作品を引き合いに出してもいいかもしれない。

 

上で挙げた<特異領域>が、今回はアトリエに設定される。まさに芸術を創造する場所だ。<特異領域>は中世の古城のように決して閉ざされた空間ではなく、かならず客観的な視点が配される。これはOnions作品では顕著に見られる特徴であろう。「屋根裏のロープ」では青年フランシスの目を通して奇っ怪なビジュアルの主人公が描写されるし、「途で出逢う女」では「実際の」日記が基になっている。「ベンリアン」において客観的視点を担うのは、世話焼きの女友達、それに光学器械(カメラ)である。作品中二度SPR(Society for Psychical Research 心霊現象研究協会)の名が出てくることも、本作が特にその客観的視点を強く意識していることは確かであろう。

 

芸術を生み出す行為は本来「恥ずかしいもの」なのではないか、と私は考える。そしてその感覚が滲み出ている作品が好きなのだ。一例を挙げるならば、沖島勲監督『YYK論争 '永遠の誤解'』において、黒々として不気味なセット裏が映ってしまう瞬間。『女優霊』において子役が落下死してしまったことで、警察の捜査が入る場面の柳ユーレイさんの俯いた表情(ここはもっと掘り下げたいところですね)。詰まるところ、

「芸術を創造する場における、異様とも言える熱狂」/「それを見る冷徹な視点」

という構造が好きなのかも。「ベンリアン」ではその視点にカメラという、ある種人間を超越した絶対的な視点を配した点が非常に優れたポイントだと思うのだ。芸術の完成度や、恋愛なんてもちろん物差しで測れない。しかし強引に数値化しようとする無謀とも言える試みに私は強く惹かれてしまう。

 

以上、『手招く美女』より「ベンリアン」。かなり好きな物語だったので「その2」を書くかもしれない。