【映画時評】『アネット』

Annette(Leos Carax,2022)

公開日に映画「アネット」。劇場は京都シネマ。普段に比べると平日にも関わらず中々の客入り。年配もしくは研究者らしき風体の方が多いイメージだが、珍しく20-30代のお客さんも。

 

冒頭はarteなどの製作会社・配給会社のロゴが提示されるに合わせて観客へ鑑賞マナーの注意喚起。ただし真面目腐ったものでも、攻撃的なものでも、冤罪的なものでもなく(このマナー映像問題は根深いのだ。特にアップリンクなんてアレが社風だなんて趣味が悪すぎるとは考えないのだろうか?Caraxが意識してなのかどうかは分からないが、マナー映像の歴史は古いし、考える余地はある。いずれ別の記事で考えたいところ。ちなみに一番好きなマナー映像は、バクーさんのやつ)穏やかなテンションで「息を止めて映画を見るように」。さて『映画が始まる』。レコーディングスタジオにはCarax本人と実娘のNastya。レコーディングルームにはSPARKSのメンバー他数名、コーラス隊。曲がかかると全員スタジオを後に街に繰り出し、Adam DriverやMarion Cotillardらもマーチに合流。タイトルコールを済ませ、いよいよ『映画が始まる』。

 

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サイレント映画時代の Cinema etiquet(たしかサイレント期には人声についての指摘がなかったとか。つまり観客の喧しさと映画の喧しさには相関がある?)

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バクーさん。画面右下にいる子象のリンゴの食べ方に注目!

 

kankaku.jp

 

 

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先日逝去された青山真治さんは『アネット』を絶賛していたそう。そんな青山さんの映画対談本の表紙がこちら。これも素晴らしい本でした。ちなみに『アネット』のプロデューサーの一人・堀越謙三さんは青山監督と共に『秋声旅日記』を製作。

 

二度にわたって前座が用意されている。それ以降も観客への目配せと、作りものであることを強調する演出は貫かれる。前座も興味深いが(観客と映画館の歴史に自覚的である)、詳しく見たいのは情報の提示され方だ。まずはLAに位置するThe Village recording studioの外観が映し出される。外観に重ね合わされたノイズが消えると、カットは変わりスタジオで機材を前に座るCaraxを背後から。後景には硝子と防音壁で仕切られた録音ルームが映っており、その後SPARKSのアップへと連なる。外観→機材スペース→録音ルームと内へ内へカメラが分け入っていく。しかし、いよいよ歌が始まればカメラは一連の動きでマーチをフォローし、カットを割ることなくこれまでの道程の逆を辿り、サンタモニカのブールバールへ再び戻る。このオープニングの一連の動きが、閾をまたぐことこそ映画における快楽であると慎ましく示している。オールドハリウッド的な情報提示の作法からヌーヴェルバーグへの変化が、たった5分程度の冒頭のシークエンスに煮詰められている。

 

上で述べた出演者・製作者によるタイトルコールという第4の壁をまたぐ演出もまた当然、本作の観客への目配せである。さらに物語自体が、演者と大衆の関係性に焦点を当てている。なおその「大衆」に含まれるのは舞台の観客だけではなく、ベイビー・アネットに熱狂するファンらや(スーパーボウルの、あの安っぽさ)ゴシップ記者達(Show Biz Newsの、あの安っぽさ)も含まれる。舞台上で芸を披露するHenryを収めたフレームは、多くが観客の頭越しである。そして顔のない彼らからはときに笑い声が、ときに罵声が浴びせられる。舞台外/画面外からの銃声に映画内/実際の観客達も心底驚かされるが、殊舞台やパパラッチの場面つまりHenryと大衆とが対面している場面に限って言えば、大衆の声は力強く聞こえるし、記者達は肉感的なダンスを披露する。しかしShow Biz Newsやスーパーボウルの映像は反対にひどくちゃちに見える・聞こえるように演出されている。

また、6人の女性がHenryの性暴力を告発する場面がある。

 

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告発の夢を見る前のこと。車の中で、Annは寝入る前にカリフォルニアで山火事が発生したとのニュース速報を見るも、その災害に対してのリアクションは映されない。ゆえに彼女がどう受け止めたのかは不明だが、直後に眠ってしまったことから想像するに、おそらく彼女は現実味を感じていない。Annが専ら頭を悩ませるのは、Henryである。Henryに対して抱いてきた不信感。そんなAnnの強迫観念が、あの6人の女性による告発映像として迫ってくる。あの告発が、女性であるAnnの夢の中の出来事として描かれている点がまず面白い。そしてAnnは目覚める。すると前からHenryと思しきバイカーがこちらに向かって突進してくるではないか(電子ズームが用いられる。夢の映像と電子ズームの食い合わせの良さ。『リアル 首長竜』や『エンターザボイド』などでも用いられていた)。ヘッドライトから身を守るように腕を前に組むという滑稽な姿勢をとるAnnは、目を見開き、驚いた表情を浮かべる。そして再びAnnは目覚める。二度にわたってHenryに対して抱く不信感のイメージがAnnを襲うが、彼女はどちらでも目醒める。

その次に、ラスヴェガスへ向けてバイクを走らせるHenry。彼はAnnが死に囚われているイメージ、それにAnnetteの姿を幻視する。幾多の映画の記憶が詰まった、まさに夢のような素晴らしい映画的なシークエンスだが、何かが物足りない。そう、彼のリアクションは映されない。非常に強迫観念的なシークエンスなのにも関わらず、だ。そして夢から醒めることもないまま彼はラスヴェガスの舞台に上がり、そこで抱え込んでいた思いを爆発させてしまう。

 

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これらShowBizやスーパーボウルや告発動画からは大衆の顔が見える限界が窺える。その規模によって、リアリティレベルを操作しているのだ。顔が一切見えないShowBizや、ほとんど目視では確認できないスーパーボウルではリアリティレベルをグッと引き下げ、反対に告発動画やHenryの舞台では告発者や一観客の顔が大きく映し出されることで、リアリティを獲得する。それらを前にしたHenry/Annのリアクションの違いが見て取れるのだ。

 

 

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『マブゼ博士の遺言』より

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ワイルドアットハート』より

 

「画面の中の」内/外に注意して見れば、AnnとAnnetteはモニターの枠内に囚われた者としてHenryの眼には映っていることが分かる。前者はHenryがAnn主演のオペラを舞台裏から覗き見る際、カーテンコールをする彼女がモニターに映し出される。後者はスーパーボウルで上手く歌うことができないAnnetteが、Henryの肩越しにモニターに。このような映画内映像は、人の視線をそこに集中させることが出来る。たとえば近年ではホンサンス『逃げた女』でも同様の演出が監視カメラを用いて試みられているし、そのような例は数多存在する。これは映画の本質に触れる瞬間であるし、映画が映画自身を内に取り込もうという生来の欲望だ。「Annette」はそれを引き出し、露呈させる。枠内に封じ込められたかに見える2人であるが、両者は共にそんなちっぽけな存在ではない。そう思い込むHenryを、Annは(上目遣いで)見透かしているし、Annetteは搾取されることを拒んでHenryが人殺しであることを公衆の面前で暴露する。Henryの「枠」を通して見られた者は必ずその枠を飛び出す。そのような論理が作品を貫く。そんなHenryはあくまでも道化=The Ape of Godという「枠」に苦しめられるし、オペラの舞台裏という「枠」から覗き見るし、硝子張りの放送席という「枠」で娘の手助けをすることが出来ずもどかしい思いをするし、最後には牢屋という現実社会において最も厳重な「枠」に囚われる。

 

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ホンサンス『逃げた女』より監視カメラ場面

 

「映画の本質に触れる」とは容易ならざる芸当だ。映画内映像に次いで「赤ん坊」が本質を引きずり出す。当然赤ん坊は演技の幅が限られているし、それを誰もが理解している。そのため例えば「鬼畜」で岩下志麻が赤ん坊の口に米を詰めまくる場面を見るとき、ギョッとしない者はいない。本作ではそんな赤ん坊を生身ではなく、パペットを用いることで処理する。それも通常の映画における赤ん坊パペットとは比にならないくらい、作りものっぽく。そこには現実社会からの要請が働いている。高橋洋「うそつきジャンヌ・ダルク」で役者同士が近づくとアクリル板が闖入される際に画面が異様にギラつくように、本作ではパペットが映る度ギラつく。話は逸れるが「悪魔の赤ちゃん」を想起しさえした(ラリーコーエン監督「悪魔の赤ちゃん3」冒頭の迫力ある裁判場面を期待してしまう自分もいた)。

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『うそつきジャンヌ・ダルク』よりジャネットとカトリーヌ。アクリル板に注目

 

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『悪魔の赤ちゃん3』より法廷に引きずり出されるit



他にも、スーパーボウル場面ではおそらく「予算」という現実的な壁が立ちはだかる。船が大波に攫われる場面では「安全性」という壁が。そんな数多立ちはだかる壁を(ちゃちな)パペットや合成やスクリーンプロセスで攻略するとき、画面がギラギラし始める。映画の本質に触れる瞬間とはこういう時を言うのだ。そしてそれはチープで滑稽あまつさえ悲痛に見える反面、形容しがたい魅力がある。カットとカットのつなぎ目を「見えなくしよう」としたグリフィスに対して、エイゼンシュタインはその逆の手法を採択した。カット同士を衝突させ(つなぎ目を敢えて「見せる」)、その裂け目から別の何かを発現させようとした。それによって新たな映画言語が生まれたのだが、この、映画の嘘を「見えなくする」→敢えて「見せ」ようとする動きは常に映画界のどこかで生じているのではないか。『アネット』は現状において、その最先端とも言える。予算がある映画では、当然安全性も保証されるし、ホンモノのように見える赤ん坊をCGで作ることも可能になる。しかしそれは「嘘を金で塗り固めているだけに過ぎない」と、Caraxは一蹴する。彼らは映画を低く見積もりすぎている。映画の底は、もっと深い。そのことに自覚的であるからこそ、徹底的に嘘を見せるし、そのためにミュージカルという最も虚飾に塗れた語り口を選んだし、主人公・Henryを自身の嘘に心を悩ませる青年というキャラクターに設定したのだろう。Henryは、自分を笑った観客に対して、つまり安全圏から枠に収めようとし勝手に断罪する観客に対して牙を剥くし(You used to Laugh!!!!  FuckFuckFuck!!!!! そういえばこの場面でもエレベーター→舞台裏→舞台までがワンカットで撮影されている。枠を飛び出ようともがいているのだ)、結局枠に囚われたまま人生を終えるのだろう。というかこの映画の舞台自体、この世でもっとも虚飾に塗れた都市じゃないか。しかし、そんな嘘だらけで枠から抜け出せない本作で、Caraxの衝動だけがカットとカット、シークエンスとシークエンスとを貫き、ギラギラと光っている。その衝動とはやはり、観る者をアッと驚かせるような映像を撮りたい、という純粋なものなのだろう。忘れてはいけない前提として、(上でも述べたように)本作はLA映画である(ただし屋内場面はヨーロッパで撮影されたパートも多くある)。元気がないハリウッドに喝を入れる映画と言うと老人じみた物言いだが、その点において『アンビュランス』と交差しもする。ただ『アネット』はコロナ以前に撮影が完了してはいますが。

 

 

ただ、そのような衝動だけで、こんな、ある意味病んだ傑作は生まれうるだろうか。先ほど私は、AnnとAnntteは枠から抜け出ることに成功したと指摘した。Annetteについては、パペットから肉体を持った少女への転生として描かれる。ではAnnはどうだろう。大海原で溺死したAnnはその後、Henryが幻視してしまう光景を表現する主観ショットの中においてのみ登場する。それも、これまでの短髪で進歩的な女性である印象を抱かせる姿ではなく長髪に泥まみれで、まるで男性にとってのオブジェ=悲劇の女性ヒロインとして画面には現われる(モニター中の彼女の姿をここでもう一度思い出す)。至極分かりやすいキャラクター造形に変更されており、それはHenryの目線を通して見たAnnであり、Henryという枠に囚われた女性である。

さて、ここで終盤の裁判場面を思い出してみる。照明がガラっと転調すると、Henryは法廷内を縦横無尽に走り回りながら歌い、死んだはずのAnnに呼びかける。ここで彼が歌うのが「Stepping Back in Time」。

 

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すると法廷に設えられた鏡にAnnの姿がチラリと映る。その彼女の姿は生前の彼女のままだ(短髪でノースリーブ)。鏡の中に漂う幻影を追うHenryはさらに感情を込めて歌うと、柱の後ろからAnnが姿を現す。生前のAnnをHenryの肩越しに捉えた仰角気味のカットが印象的だ。彼はさらに強く訴えかけるが、彼女はすーっとフレームアウトしてしまう。それに合わせてピントもAnnからHenryへと送られる。画面に取り残されるHenryに対して、画面外から何者かが彼に呼びかける。ゴシック怪奇映画のようなシャープな照明が舞台を照らす中現われたのは、死後のAnnである。そしてHenryに呪いをかける醜い姿の死後のAnnが捉えられたまま、画面はフェードアウトする。

 

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ここで対比されているのは生前/死後のAnnだ。生前のAnnはフレームの外へと逃げ出るのに対して、死後のAnnはフレーム内に留まり続ける。死後のAnnの醜い姿が強く印象に残るが、生前の彼女の姿はHenryの手垢が付くことなくそのまま保存されている。本作において「枠から抜け出ること」とは「フレームから抜け出ること」であり、詰まるところ「カメラを向けたが最後」なのだ。カメラを向けられている限り、枠から、フレームから解放される機会は訪れない。至極当然な問題に行き着いてしまったが、ふつう映画を見ていてそんなことを考えはしない。しかし『アネット』は、その地平にまで我々観客の意識を連れて行ってくれる、(ある意味)ピュアな映画なのである。おそらくCaraxは何度も自問したことだろうと思う。「どうして、映画を作るためには人にカメラを向けなければならないのか」と。「映画作りとは、端から呪われた行為なのではないか」と。

 

Caraxは、映画の神様に祝福されていない。映画に呪われている。

 

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